CIRCLE OF DAYZ vol.4 Setsumasa Kobayashi Part 1
2021.08.07 #FASHION #INTERVIEW
「DAYZ」と結びつきの強い人物や「DAYZ」が心惹かれる人物についてじっくり深掘りしていく「CIRCLE OF DAYZ」。第四回は、〈.....RESEARCH〉のブランドディレクター小林節正に話を訊いた、ブランドの始まりとは。
やりたいことがあったらさっさとやる
——ブランドを始めるきっかけは?
俺は元々靴屋で、浅草の実家も婦人靴の工場だったんだ。靴ってファッションの中に入り込んでるアイテムであることには間違いないんだけど、靴基軸でゼロからファッションを組み上げることができるほど自由度が持たされてる領域じゃないなってのはよく当時感じてて。その頃の浅草の工場ってもれなく暗くて汚かったんだけど(笑)、腕がよければ人より稼げる仕事でね、時代が高度成長期だったこともあって大卒より全然いい給料が取れたっていう、まさに時代の抜け道の中にあった職場というか職種というか。そんなマイナー感が色濃く漂っちゃう背景と共にっていうのが、あの頃日本のファッション靴が置かれてた位置だった。でも、高校を卒業して靴の修行でイタリアに行ってみたら、状況は全然違ってたんだよね。あの靴が、長年浅草の実家で見てきた靴がさ、洋服と対等レベルで立派にファッションの一角を成すモノとして機能してる。イタリアの工場は環境ひとつとっても自分が育った工場と違って、近代的で綺麗だったし、いる人達も、職人にいたるまで、ちゃんとファッションの話よく知ってるし。そんな光景を目の当たりにして日本に帰ってきたものだから、いざ靴をやるとなると浅草の靴の景色と違う場所でやりたいって思うようになってたし、やるなら洋服側の人たちと同じ立ち位置に居ながらやらなきゃって考えるようになって入社したのが、当時70年代後半の東コレのランウェイショーに出てた靴の企画を一手に請け負ってた社員3人だけのとある会社。おかげさまで、夢焦がれてたファッションと靴を同列に話ができる場所にうまく忍び込めたわけなんだけど、そんなふうにファッションにタッチできたのが80年代の頭の話。よく知られている通り、〈Comme des Garçons〉も81年にパリに行ってるから、ちょうど日本のDCブランドがどんどん海外に進出し始めた時代で、靴もすごく面白かった。いろいろなデザイナーの人たちと仕事をさせてもらってたわけだけど、言われるがまま靴をデザインするのって、考えようによっちゃ御用聞きみたいな仕事じゃん? ま、捉え方次第ではあるけど。
やっぱ一から自分でデザインしたいって考えるようになってね、それも洋服屋じゃない自分、つまり靴屋がやるファッションなわけだから、この際、作品みたいなのじゃなくてデイリーなものがいいよなぁとか。そんなことを考えながら、靴をいくつか作ってアメリカの〈BARNEYS NEW YORK〉に持って行ったんだ。レジュメも作って、仕入れてくれって。その時の担当者が「OK」って言うから発注書を待ってたんだけど、待てど暮らせど来ないわけよ返事が。どうしたんだろうなと思ったら、その担当者は俺が行った1週間後に辞めてたっていう(笑)。次のシーズンの前に、もう1回新しい担当者のところに行ったら、前任が決めた話だから知らないって、いきなりすごい意地悪になってやんの!(爆笑)。まぁでも、嫌がられながらもめげずに何度も通ってたら、やっとこさ買ってくれることになりましたってのが、〈SEtt〉っていう靴のブランドを始めた90年代初頭の話。ニューヨークでデビューしたいと思ってたのが本音だけど、〈BARNEYS NEW YORK〉って決めてたわけではなくて、〈BERGDORF GOODMAN〉とか目抜き通りにある百貨店にはすべて行った。結果、さっきの無責任なやりとりを乗り越えて(苦笑)、最初にバーニーズが買ってくれたんだ。次に新作を持ち込んだときだったかなぁ...。いざ売り場に案内されて、「これがお前と同じ時期に並ぶデザイナーだ」って、〈Paul Harnden〉の靴を見せられたんだけど、彼の仕事を見た時にコレはちょっとやばいな...と思っちゃった。だってさ、彼は俺が辿り着きたい、さらにその先のことを80年代最初のコレクションで既にやっていたんだから。アメリカで売ってもらえることこそ実現したけど、〈Paul Harden〉を見た後となっては、もうアメリカとか海外でやっていくことをあまり意識しないで、同じファッションなら日本で自分のまわりのコたちに履いてもらえる靴や着てもらえる服をつくったらいいじゃんって思うようになってた。
そんなこんなを経て、ジョニオ君たちが丁度〈UNDER COVER〉のショーを行った1994年界隈は、よく一緒に仕事をさせてもらってたけど、自分より下の彼ら世代に靴屋として接する瞬間は最高に面白かったな。ジョニオ君が立体裁断をやってると、アシスタントのコが床でパターン引いてたりしてさ。やりたいことがあったら、ものを買い足してきたりしながら、その場でさっさとつくっちゃうし。アパートの1室でそういったことがものの見事に行われていて、パターン取るのも床、生地を切るのも床、経理は丸テーブルで処理してみたいな(笑)。あと、ジョニオ君たちの仕事ですごく面白く思ったポイントのひとつがTシャツだったんだよね。俺の認識が間違ってなければだけど、年に2回のコレクションではまずメインに据えるグラフィックをなによりも先に作って、そのTシャツを4、5型出してから、コレクションの洋服にとりかかるっていう流れ!? とにかくTシャツに刷られるイメージグラフィックがしっかりしてなかったらダメ、格好悪いっていう価値観は鮮烈だった。グラフィックTeeに重きを置くっていうか、むしろTシャツが全ての中心!? このスタンスには感じるところがとってもあって、94年に始めた〈GENERAL RESEARCH〉もTシャツから始めたもの。
あの時はTシャツっていうと、自分も含めて界隈のみんながオニータのボディを使ってたような記憶だけど、オニータにしてもアンヴィルもそうだったけど、そのぐらいの時期にアメリカの本社が潰れてボディが手に入らなくなっちゃって、一気にみんな自分たちでTシャツのボディからつくらざるを得なくなったんだ。期を同じくして、中国に仕事を振り始めた量販店の人たちってのもいて、安いからって中国製のTシャツを使ってる連中とふたつに分かれ始めるんだよね。俺らはオニータで不満に感じてた点を自分なりに改良してもっとフルスペックなものをつくりたいっていうオリジナルボディの一派だったけど、NIGO®︎君に至っては挙げ句の果てに、Tシャツを圧縮して小さくして、スプレー缶に入れちゃった! こっちが捉えてる彼のイメージは、プロデューサーというのがあったから、全体の収まりを細部の細部まで気にするタイプっていうか、ここぞとばかりギミックの鬼っぷりを発揮して、やっぱ仕掛けがいちいちすごくうまい! って感銘を受けたな。そんなこんなを経て、この中目黒の店は1995年にできたんだけど、自分で洋服始めた以上、一度は店持ちたいじゃん、なる早で(笑)。やるなら中目黒って、はなから決めてはいたけど、川沿いのこの一帯は店なんてひとつもない時代で家賃が安かったから、ここに来たんだよ。こんなふうに、できることから始めていければいいなっていうのも、ジョニオ君たちが見せてくれたやりたいことがあったらさっさとやる、っていうあの精神がすごく影響しているのかもね。
自分たちのエリアだから
——世代が離れた人たちから学ぶことは?
二年前に自宅を引っ越しした時に、家の納戸から当時の裏原のノベルティがいろいろ出てきたことがあったんだけど、こんなことやっててどうやって採算取るんだ? っていうものばっかり(笑)。みんなやりたいことがはっきりまず先にあったからできたことだよね。だって、あの頃から20年以上経った今見たって、どれもこれも自由に、面白そうにやってるふうに映るものばかりだから。やっぱりあの勢いをつくったのは、デザイナーの先生のところに弟子入りして修行を積んでから世に出るっていう、それまではごく普通だったファッション界的な過程を一切踏まずにやり始めちゃったっていう、ある意味余計な経験がなかったっていう要素がズバ抜けて面白いものを生み出していたんだと思う。そんな彼らが近くに居たものだから、そりゃ影響のひとつも受けるってものだよね(笑)。あともうひとつ。これは状況的な話になるけど、あの瞬間に裏原で起こった出来事がピンポイントに日本でしか起きなかったのは、当時バブルがはじけて、80年代にDCブランドの仕事を請け負ってた工場は仕事がほとんどなくなってたんだけど、90年代の頭辺りになるとポツポツとまたやり始めてくれて、結果、僕らみたいな小規模・小ロットの仕事を受けてくれる生産背景の受け皿がたくさんあったからなんだよね。産業構造的な日本の経済でありながら、当時はまだ今のようには整理されてなくて、家内制手工業みたいなのがかなり残ってた時代だったってのもデカい。小回りが効いてなんでもつくれたっていう日本ならではの生産状況が存在してくれてたことが、94年の大爆発に繋がる背景でもあるよね。普通に考えても、DCブランドが流行ってる時代にああいったムーブメントが起きたって相手にしてもらえないでしょ? 出だしの頃じゃそうそう数まとまらないわけだし、新しくて実験的なことばっかやってたわけだし。
——中目黒のお店については?
路面店であると同時に個人商店って本当に大事で、企業のやってる店の前を掃いてる従業員の人はあまり見ないけど、個人商店のスタッフは普通に掃くじゃん。路面店っていうのは自分の店の前の道には責任があるからなんだよね。企業の中にいると店から一歩外に出た先の話は関係ないわけで、その感覚はもちろんよくわかるけど、企業の店が増えちゃうとそれだけ街のあり方が粗雑になっちゃう気はするな。ウチの洋服屋と軒を並べてる隣のCOW BOOKSだって、個人店の本屋が少なくなってるんだったら個人店を増やす話をしないとヤバいよねって、松浦(弥太郎)君と話したことが一緒に店をやるきっかけだし、自分たちのエリアだからっていう気持ちあってのものだったし。自分たちにはここのエリアの責任があるんだぞっていう風に思えるようになるところはやっぱり路面店の面白さなんじゃない?
——その価値観が形成されたタイミングは?
生まれが浅草だったからかな。個人商店が並んでて、店の前を全員が掃いているわけじゃん。あの感じは、山手エリアに来れば来るほどなくなる。東京の下町には、ある時まではそんな感じの田舎町に近い感覚が残ってた。自分でまわりのことをやるっていうのがなくなるとつまんないだろうなって感じがする。変化としてはしょうがないんだけどね。だけど、できればそういったカタチが俺は好きだなって。じゃないと、糸切れたタコみたいになっちゃって戻るべき場所を見失ったままになっちゃうからね。
PROFILE
小林 節正
マウンテンリサーチの名の下、日本の山に焦点を絞った”山の暮らし”について長年考察を続けるリサーチャー。1994年の発足より約12年間に及んだ〈GENERAL RESEARCH〉としての活動を2006年に終了させ、同年、〈MOUNTAIN RESEARCH〉を主軸に据えた〈. . . . . RESEARCH〉を新たに始動。それまでのジェネラルな(全般的な)リサーチ(研究)から、ひとつのテーマを掘り下げるための研究体制へと活動の形態を移行させ今に至る。現在は、主に山の〈MOUNTAIN RESEARCH〉と並行し、2020年から本格始動を開始したカスタムバイク専用のプロギアに特化する〈RIDING EQUIPMENT RESEARCH〉に力を注いでいる。
BLOG
Instagram
Interview & Text : Yu Yamaki
Photo : Yu Inohara
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