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CIRCLE OF DAYZ vol.9 B+ Part 1

DAYZ」と結びつきの強い人物や「DAYZ」が心惹かれる人物についてじっくり深掘りしていく「CIRCLE OF DAYZ」。第9回は先日のトランクホテルでの写真展及び、APPLEBUMとのコラボレーションも記憶に新しい、写真家のB+にインタビュー。前半は若い頃に影響を受けたアーティストたちについて。

左 : Bebe 中 : B+ 右 : Muneo

Bebe:今回はDAYZでB+とAPPLEBUMのコラボレーションを発表しようということなんですが、APPLEBUMの代表である宗生くんから「B+とコラボレーションするのはどうだろう?」って、ある日アイデアが降りてきたんです。

Muneo:僕は96年リリースのDJ Shadow のアルバム 『Endtroducing』を通して、Brianさんをはっきりと認識しました。あのアルバムカバーで受けた衝撃は今でも鮮明に覚えています。

B+:私たちが初めて会ったのは2000年くらいの時でしたね。あの時のことは忘れたことがないです(笑) 。僕らはワゴン車の後ろにいて、宗生さんは撮影用のBMWを運転してましたね。僕は30年プロとして、ビデオや写真を撮っているけど、たったの1度だけ寝ちゃったんだよね。カメラが回っている最中に。それがあの時でした(笑)。

Muneo:僕はすごく運転に集中していたんで、Brianさんが眠ってたなんて全く知らなかったです(笑)。

Bebe:互いに経験した面白い過去があるんですね。

B+:いつもみんなに、その時期の事を話したりするんだけど、アメリカではたくさんのヒップホップのグループがいた。彼らは、資金援助によって成り立っている。小さいアクションから全てが始まっていくんだ。日本にもそんなカルチャーがあるって聞いて、日本のヒップホップのストーリーを作りたくて、その視察のために来たんだよね。当時、僕の周りの人達が、髪をドレッドにして日焼けサロンで肌を黒く焼いた姿を見て、ホントにヒップホップ好きなんだって日本人の話しをしてきたんだ。まだFutura (フューチュラ) とKeith Herrin (キース・へリング) が日本に来た時だったから、彼らにとってはまだヒップホップカルチャーの黎明期で、これが日本固有のヒップホップスタイルだった。少なくともアメリカ人に気づいて欲しかったみたいだよね。それから、写真家として依頼が日本から来始めたんだよ。僕はアメリカ人じゃないけどね(笑)。

Bebe:Brianさんはアイルランド人ですもんね。

B+:アメリカ人は他国に対して、自分たちの枠を通して理解しようとする。でも、その枠を超えて素晴らしいものもあるし、他者の人生の中で見たものとは違うんだよって言いたくなるんだよね。だから僕は、日本の典型的な話を作らないようにしている。僕自身がアイルランド人だから、互いの違いよりも共有すること、互いを理解することを選ぶ。アイルランドからロサンゼルスに移って、写真の大学院に行くために。1990年だったかな。

Bebe:その時代、1990年は西海岸のヒップホップが流行ってましたよね。インディーズのヒップホップグループだったり、西海岸で見つけたりしましたか?

B+:アメリカに行く前からN.W.AやTone Locは知っていたな。でもKid Frostはその当時は知らなかった。アメリカに行ってからは、Too shortや ICE-Tをカリフォルニアで知ったんだ。でも僕を本当に虜にしたのは、彼らのような主流な方々ではなくて、彼らとは違う2つのグループに突然出会ったんだ。1つはThe Watts ProphetsとFreestyle Fellowship。Freestyle Fellowshipはそんなに成功はしなかったけど、とても影響力のあるグループだったんだよね。僕が思うにその時代で、最も成功したロサンゼルスのインディーズはThe Pharcyde。でも文化的にはFreestyle Fellowshipが重要だと思う。彼らには、たくさんの年老いたジャズクルーたちと時間を過ごしたり。音楽の継続が僕にとって大事なんだよね。最初のジャズレコードはロサンゼルスでレコーディングされたって言われているしね。

Bebe:本当ですか。知らなかったです。

B+:最初のグラフィティもロサンゼルスとも言われたり。ブレイクダンスもあるし、ポッピング・ロッキングダンスもある。

Bebe:スケートボードもですよね。ロサンゼルスではそれらが散らばって、個々に文化が成長しているような感じですよね。だからカリフォルニア州の人って、とてもユニークで、個性を持っているんだなと僕は思います。だから僕は、カリフォルニアってニューイングランド地方のような感じに思うんですよね。オリジナルの何かを作り出したり。

B+:インディーズのヒップホップがロサンゼルスで生まれたっていうのを知らない人が多い。ニューヨークでは小さな騒音を立てただけで、世界中に知られることもある。ロサンゼルスで大きな音を立てても、誰にも気づかれないんだ。

Bebe:ではBrianさんがロサンゼルスに行かれたのは大学に行くためでしたが、それと同時に文化に関してもロサンゼルスが良かったんですね。ヒップホップの背景から、何かインスピレーションを受けたってことですか?

B+:いや、僕は東海岸系だからね。アイルランドにいた頃はDe La Soul、Public Enemyも好きだったな。それとSchoolly Dね。Schooly Dは今も好きだね。でもその時点では、もっと過激なロサンゼルスのヒップホップにはまだ辿り着いていなかったんだ。僕だって、世界中の他のみんなが思っていたようにヒップホップはニューヨークだと思っていた。僕はニューヨークで活動しないと思う。エキサイティングな場所だけれどね。政治的にも概念的にも好きな写真家のAllan Sekulaと一緒に、写真というものを勉強してきたんだ。『Photography Against the Grain』がアメリカに移ったきっかけだったね。

Muneo:この本からどのようにインスパイアされたのですか?

B+:アイルランドの図書館に影響を受けた本が二冊あってね。一冊がこの本。そしてもう一冊が、Larry Clarkの『Tulsa』だった。その時は、荒木信雄も森山大道も知らなかったんだよ。ここに載っているモノは僕にとって、とにかく写真が素晴らしいことと、アイデアが良いんだよね。彼の考えと実際に実行可能かというギャップがありながらも、写真を作り出すってコトかな。僕にとってかなりインスパイアされたことなんだ。1984年のことだね。この本が再販された時に「絶対、写真集を集めるぞ!」って決意したんだ。とにかくこの本が欲しくて、500ドルを払ってオリジナルを買った。だけどもう彼は亡くなってしまってね。そんなに親しい間柄では無かったんだけど、Allanの人生の後半あたりのインタビューで時々、僕の名前を出していたんだ。たまに、僕に音楽を送ってくれたりもしてね。「B+と話した方がいいよ」って言ってくれたりして。でも僕はこの本をアイルランドの図書館で見つけて、写真でこんなことができるのかってアイデアをもらって、写真って自由なんだってことに気づいたんだ。

あと、きっかけを1人挙げるなら、今となっては親しい友人のJanette Beckman。Janette Beckman、Larry Clark、Allan Sekula、他にも沢山いるけど、彼らは僕の人生にとって重要人物なんだ。Cindy Sharman、Barbara Krugerといった彼女たちもね。あと大事な人がMike Davisだね。彼とはたくさん議論した。彼から言われたことがきっかけで、僕がやりたかったことが誰もやっていないことに気がつけたんだ。だから、Mike Davisは僕の人生を本当に変えた一人だと思う。J Dillaも僕の人生を変えた。沢山いるね(笑)。

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