DAYZ archives

search search

DAYZ AFTER TOMORROW vol.4 Daisuke Motogi

僕たちの東京コミュニティは職業、性別、年齢など関係なく、愛するカルチャーで集まっている。気になる人から気になる人へバトンを繋ぐ、某テレビ番組のオマージュ企画「DAYZ AFTER TOMORROW」。第四回目は神宮前に位置するうどん屋「麺散」や渋谷の「不眠遊戯ライオン」のプロデュース、様々なパーティの会場となっている「Tokyo BURNSIDE」の仕掛け人である岡田茂からバトンを受け取った、DDAA代表の元木大輔にインタビュー。建築・デザイン事務所DDAAを設立し、建築、都市計画、ランドスケープ、インテリア、プロダクト、コンセプトメイキングなどの様々なプロジェクトに関わると同時に、建築的な思考を軸に、独自のリサーチやプロトタイピングを通して社会性のある実験的なデザインを自主的に行うプラットフォームDDAA LABも運営する彼のバックグラウンドについて訊いた。

To 元木大輔 from 岡田茂 MESSAGE

同世代として刺激を貰ってるしこの先も常に新しい事にチャレンジしていって欲しいなぁ。

To 岡田茂 from 元木大輔 MESSAGE

やっていることのジャンルは全然違うんだけど、アプローチに共感することが多々あって、僕の方こそ刺激をもらってます。


──前回のインタビューの茂くんから元木さんを紹介していただいたんですが、二人が出会ったきっかけを教えてください。

Motogi(以下:M):2021年に、長崎県波佐見町の陶磁器ブランド「マルヒロ」のオフィスや「HIROPPA」という公園をDDAAがデザインしたのですが、その縁で、DDAAの事務所がある中目黒の「Happa」でマルヒロのアーカイブ展をやったことがありました。初めて茂くんと会ったのは、その時だったと思います。

Shigeru(以下:S):そうだね。僕は以前から元木くんのことを一方的に知っていたんですけど、そのアーカイブ展に行った時に、マルヒロの社長、馬場匡平が紹介してくれた。

──東京で出会ったんですね。元木さんはどういった経緯で東京で活動するようになったんですか。

M:僕は、埼玉県熊谷市で高校卒業までを過ごしました。その頃から音楽がめちゃくちゃ好きで、当時熊谷にあった3軒のレコード屋に毎日行っていました。特に入り浸ってたのは「レコードランド333」というオールジャンルのレコードが置いてあるところ。2軒目がスカバンドのThe Silver Sonicsの村田亮さんがやってた「ホット・ショット・レコード」というレゲエ・ジャマイカの音楽が中心のレコード屋さん。3軒目もジャマイカの7インチがたくさん置いてあった「ROMANTIC RECORDS STORE」。

──行っていたのは高校生の時とかですか?

M:そう。僕はいわゆる進学校に通っていたんですけど、そこは校則が2つしかなくてすごい自由な高校だったんですよ(笑)。

S:少ない!それは自由だね。

M:もう20年以上前なのでうろ覚えだけど、たしか一つ目は、生徒は飲酒・喫煙・暴力行為をしてはいけない。二つ目は、生徒は政治活動をしてはいけない。

S:ほぼないに等しいね(笑)。

M:制服もなかったし、修学旅行も行きたい場所をみんなで投票して決めていました。僕らの時は北海道で、行き帰りの飛行機だけ決まってて、あとはほぼ自由行動だったので、ライブハウスに行ったり、レコード屋さんに行ったりしましたね。

──多感な時期は音楽がベースになってたんですね。自分でやったりはしなかったんですか?

M:意外かもしれないですけど、3歳から18歳まで真面目にバイオリンをやっていたんです(笑)。音楽って「音を楽しむ」って書くじゃないですか。その字の通り、中学生ぐらいまで上手に弾くことが楽しいと思っていたんですよね。ところが多感な高校時代にパンクとヒップホップに出会って、楽器の練習を真面目にしてる場合じゃない!って。

S:それは友達の影響なの?勝手なイメージだけど、浅草生まれの僕の周りには、幼少期からバイオリンやっていて、しかも校則のない進学校に通っていた人は1人もいないよ。音楽が好きでレコードショップが3店舗しかないとはいえ、行くきっかけにならないんじゃない?

M:最初の入口はファッションだったね。当時はいろんな文化とファッションがちゃんと結びついていました。高校に、めちゃくちゃおしゃれな先輩がいて、その人たちが遊んでる古着屋さんとかレコード屋さん、クラブでいろんな友達に出会いました。「あの曲がかかるからって理由でこの映画を見る」というように、いろんな音楽の楽しみ方を教えてくれる先輩のおかげで、音楽を中心にアートが好きになったり、映画が好きになったりね。まあ所詮少年なんでカッコつけなんですけどね。その当時よく遊んでいた人の一人がNIONの武井寿幸くん。

S:じゃあ、元木くんの若かりし頃を知ってる数少ない友達だね。

──当時は一緒に同じ大学に行こうという感じだったんですか。

M:通っていた高校は進学校だったので、周りのみんなは当たり前のように大学に行くけど、僕はずっとレコード屋さんで音楽聴いてるだけだから、本当に成績は下の方でした。でも当時から調べるのが好きで、いろんな人のプロフィール読んでたら、例えばミック・ジャガーやキース・リチャーズ、ジョン・レノンも、小説家の村上龍も「アートスクール中退」って書いてあって(笑)、それで美大に興味が湧いたの。

S:片鱗が出てきてるよね。調べるのが好きだったっていうけど、その時代に調べる方法って本を読み漁るか、足で稼ぐか、先輩から話を聞くかしかないしね。

M:そうそう、熊谷市立図書館でたしか『ロックンロールの歴史』みたいな本を見つけて、その本に載ってるミュージシャンのレコードを片っ端から聞いて、気になったものを買ったりね。

S:すごいね。俺なんか幼少期に図書館に行ってなかった。

──それで、今の仕事と学生の時に学んでたことがリンクし始めるのって、どういうタイミングだったんですか?

M:何学科でもよかったんですが、受かったのが建築学科だった。大学生の時も、変わらず学校に行かないでレコード屋にいたりしましたね(笑)。

S:じゃあまだ建築の面白さには気づいてないんだ。

M:まだ全然気付いてなかった。未だに単位が足りなくて大学卒業できない夢とか見るからね。でも、ロックンローラーじゃないからちゃんと卒業した(笑)。昔から、人のプロフィールを読むのが好きなんだけど、ギャングスタ・ラップのN.W.Aのアイス・キューブのプロフィール読んでたら、彼はフェニックス工科大学の建築学部だって書いてあったのを見つけたの。

S:周りがギャングで面もギャングっぽいけど、僕は傍観者だったっていうのをどこかで言ってた。でも、それは僕らの時は知らなかったけど、元木くんはディグってるから知ってたんだ。

M:そう、なんならちょっと共感してた。

S:元木くんの幼少期から学生時代のことを聞いてて調べることって大事だなって思った。もちろん僕も調べるけど、今の時代の調べると、あの時の調べるって本当に全然時間の掛け方が違うから、その時間も惜しまないぐらい好きっていうのがベースにあるんだろうね。

──音楽を仕事にしようっていうところまでいかなかったんですか?

M:そこまではいかなかった。理由は結構シンプルで、音楽が好きすぎて、音楽を仕事にしちゃいけないんじゃないかなと思ったんですよ。そこから、どういうところに就職したらいいかなと思って、行きたい事務所をなんとなく探しだした。六本木にDeluxe(のちのSuperdeluxe)っていうクラブあって、そこを手がけていたのがNamaikiというクリエイティブユニットと、Klein Dytham architectureという設計事務所だったんです。トイレに行くと、水栓に理科の実験用の三股の蛇口がついていたりして、すごく面白かった。そんな感じで気になってた事務所が3つあって。Klein Dytham、graf、スキーマ建築計画。結局、スキーマ建築計画で働くんだけど、入社した時はまだ事務所の初期で、僕が4人目のスタッフかな。

S:じゃあ大学卒業して、初めての就職先がスキーマなの?

M:そう、大学4年生の時にバイトしてて、そのまま就職したの。当時、建築雑誌に載ってる建築って綺麗に仕上げるものが多かったんだけど、スキーマはボロボロの木造アパートの改修で、柱を古いまま残していた。僕は古着も古い音楽も好きだし、建築だとこういうことみんなしないんだろうなって漠然と思ってたから、めちゃくちゃ共感しちゃったんです。

──そこからスキーマが徐々に大きくなっていくわけじゃないですか。いろんな仕事もそうだし、今なんてスキーマは東京を代表するデザインチーム。ずっと多忙な時期を過ごしてましたか?

M:時代もあってすごくハードで、とにかくずっとスキーマのオフィスにいましたね。ただ、長坂さんも音楽(特にレゲエ)が好きだから、事務所でずっと音楽かけるか、J-WAVEかTBSラジオをずっと聞いてたの。聞き過ぎて月曜日から日曜日までのラテ欄を空で覚えてた(笑)。

S:あの時代は当たり前のように働いてたことが、今じゃ当たり前じゃないしね。でも、僕もそうなんだけど、やらなきゃいけないことを仕事と捉えるか、それを学びと捉えたり、やりたいことをやってるという充実感に変えていくかの自己変換だよね。少なからずやりたいって思ってるわけじゃん。やってて、やれって言われることもあるし、やっておかないと怒られることもある。でもそれは、やりたいことを実現するための準備でもある。辛かったけど面白かったな。

──独立しようという気持ちで働いていたんですか?

M:僕はそもそも音楽が好きなだけで、絶対に建築家になりたかったわけでもなかったので、スキーマに就職した時も人生に関してあんまり考えてなかったんですよね。他に興味がある事務所がほぼなかったっていう理由だけ。ただ、最初からここにずっといるってことはないだろうなってことは思っていたし、なんとなく独立前提でやっていました。

S:そんな22、23歳位で考えられることがすごいね。

M:自分がサラリーマン的な働き方ができないんじゃないかっていうのだけは分かってたからね。入社してみたら、周りにインディペンデント精神が強い人しかいなかったから、当たり前のように独立するもんだと思っちゃってて。そこには何の疑いもなかった。だけど、どういうふうに生きていったらいいかみたいなことは、事務所では一切教えてくれなかった。

S:オリジナルであることは前提として、敢えて言うと「この師匠にこの弟子」みたいなところもうまく出してるなとは思う。

M:スキーマからは普通に影響を受けてるからね。僕が独立したのが2010年で、その当時の設計事務所は、コンペで勝つか自邸を発表して有名になるというのがセオリーだったんだよね。美大にいた頃、油絵科は油絵を描くし、彫刻科は彫刻を作るし、声楽科は歌を歌うし、映像学科は当然映像を作るように他の科は本物を作れるんだけど、建築学科だけ模型を作るの。建築は沢山お金がかかるので、本物が作れなくて、それが単純に嫌でフラストレーションが溜まるし、実現しないコンぺがあまり好きじゃなかった。だから、コンペはやりませんでした。自邸も別に家のことで親が困ってるわけではないし、貯金もほぼなくて選択肢になかった。それで自分でできることをしようと思って、事務所を独立する時にデザインイベントに自分で作った家具を出したんです。でもその当時自分のスケジュール管理が全くできてなくて、プロモーションのことを一切考えていなくて、写真が間に合わなかったんですよ。どうしようとなった時に「絵でいいんじゃないか?」と思いついて。その当時、UtrechtにいたNoritakeさんに書いてもらいました。その絵をイタリアの建築雑誌『Domus』に送ったらなんとwebサイトに載ったんですよ。だけど、それは僕じゃなくNoritakeさんの絵だから(笑)、その後に家具の写真を送ったら、それも載せてくれました。その時家具を2つ作ったんだけど、作った1つは「Lost In Sofa」。

Photo : Takafumi Yamada

Illustration : Noritake

S:椅子なんだ。可愛いね。

M:自分は結構だらしないので、携帯とかリモコンがソファの隙間から出てくることあるんですけど、テリー・リチャードソンの写真で、ソファの隙間からゴミが出てくるって写真があって、こういうソファいいじゃんと思って作ったのがこれ。

S:Cassinaっぽい感じだね。

M:そう、Josef HoffmannがデザインしたのKubusっていうCassinaから出てる名作のソファにスリッドを入れた感じ。

S:中がちょっとオレンジになってるんだ。可愛い。

M:メディアでたくさん取り上げてもらったんだけど、全く仕事に繋がらなかった。それにはいくつか理由があって、スリットを入れたことによって、布の量が通常の4倍位必要で、作業する量も原価も4倍になって、全然安くならないからマスプロダクトとして成り立たない。だから、全然どこにも引っかからなかったんだよね。だからもっと簡単に作りたいと思ってつくったのがこの「Sponge Shelf」。

Photo : Takashi Fujikawa

TOKYO ART BOOK FAIRの、ZINEのための什器をつくってほしいという依頼だったんだけど、ZINEってコピー機で刷って、折って、真ん中をホッチキスで止めるだけのようなDIYカルチャーだよね。それを入れるための什器が手の込んでるものだとちょっとかっこ悪いから、できるだけ簡単に作ろうと思って、食器洗い用のスポンジを物凄くたくさんリサーチして、 可愛い食器洗い用のスポンジをたくさん並べて挟めるようにしました。

S:やってることがスキーマより、隙間じゃん(笑)。

──店舗というよりはプロダクトデザインから入ったってことなんですね。

M:そうです。最初に家具を作った。

──自分の将来とか未来的な話で閉められたらなと思います。今、東京という街をどういう風に考えて、将来のありたい展望はありますか?

M:うーん、難しいな。でも、以前茂くんたちが事務所に遊びに来たとき時にも見たと思うけど、事務所の前にガードレールに引っ掛けるだけのベンチを作ったのね。元々使ってたベンチが盗まれちゃって(笑)、何か新しいものを作ろうと事務所の前をよく見てたら、背もたれにちょうど良いガードレールがあって、座面を引っ掛けるだけのベンチを思いついた。それがきっかけでいろいろ調べていたら、ガードレールのデザインは都道か区道かどの自治体が管理してるかによって変わるということを知ったの。それで、東京都23区のガードレールのデザインにあったベンチをボムるアイデアを思いついた。初期のKAWSの作品で〈Calvin Klein〉とか〈DKNY〉の広告にボムったものがあって。インタビューに書いてあったんだけど、Barry McGeeと一緒にどういうわけかバス停横の広告のマスターキーを持っていたんだって。それで貼ってある広告を剥がしてその上に描いてもとに戻すっていうことをやっていて、その手法がすごい好きだったの。すごい大作を頑張って書くのではなくて、ちょっと手を加えるその感じがめっちゃくちゃかっこいいと思っていました。でも、インテリアやファッション、アパレルを通じてストリートカルチャーと繋がることはあっても、建築ってもう少し都市・街のことを考えるから、そういう文化とは全然交わらないなと思っていた。でも、ベンチをボムった時に初めて、自分の好きだった文化と自分が勉強してきた建築が交わった感じがしたんです。実はそういうゲリラ的な手法は都市計画にもあって、タクティカル・アーバニズムというんだけど、例えばコインパーキングを1日お金払って借りて、そこに人工芝を敷いて、プランターを持ってきてベンチを置いて、パーキングをパーク化する「パークレット」というプロジェクトとか。つまり、街は自分たちでもカスタムできるんだよね。そういう発想で、都市的というか、パブリックスペースのデザインをしたいなと思っていたら茂くんたちと出会ったマルヒロから公園のプロジェクトの依頼が来たの。「HIROPPA」というんだけど、作ってる時はものすごく楽しかったし、パブリックスペースのデザインにも積極的に関わりたいですね。

Interview & Text : Yu Yamaki
Photo : Ryutaro Izaki

YOU MAY ALSO LIKE