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DAYZ AFTER TOMORROW vol.3 Shigeru Okada

僕たちの東京コミュニティは職業、性別、年齢など関係なく、愛するカルチャーで集まっている。気になる人から気になる人へバトンを繋ぐ、某テレビ番組のオマージュ企画「DAYZ AFTER TOMORROW」。第三回目は、映像や、バーチャル、テクノロジーなど、多岐にわたる分野でのプロデューサーとして活躍する守屋貴行からバトンを受け取った岡田茂にインタビュー。神宮前に位置するうどん屋「麺散」や渋谷の「不眠遊戯ライオン」のプロデュース、様々なパーティの会場となっている「Tokyo BURNSIDE」の仕掛け人である彼のバックグラウンドを掘り下げていく。

To 岡田茂 from 守屋貴行 MESSAGE

進化の激しい人間。ただ進化しない部分もちゃんと持っててそこが魅力的な人間ですね。

To 守屋貴行 from 岡田茂 MESSAGE

同世代の仲間として誇らしい存在。フィールドは違えど刺激を貰ってる。

―――幼少期から飲食をやろうと志していたんですか。

Shigeru(以下:S):全く飲食を目指してはいなかった。ただ、僕は母親一人の手で育ててもらったから、夜まで母親が帰ってこないのが当たり前。お小遣いが机に置いてあるような生活を小学生までは普通だと思っていた。そのお小遣いで家の周りのお店で食べていたんだけど、小学校高学年になった時ぐらいに食べ尽くしてしまって、そこで自分で作ろうと思うタイミングがあって。

―――自炊するにはかなり幼いですよね。

S:食べるものに飽きちゃったから、作るって言っても、トースターに入れてみたり、電子レンジに入れてみたり、それにケチャップやチーズをかける程度。ただ、それをきっかけに徐々に工夫をするようになって、これにこれ足したら美味しいとか、逆にまずいとか。そうゆうのを小学校から中学校の時にやっていて。今思うとメニューを作ったり商品を考えたりする時に、これとこれを掛け合わせたら面白いんじゃないかっていうきっかけになっていたんじゃないかな。実際に飲食っていうものが現実的になってきたのは18の時にバーで働いたのが大きいと思う。その前まではアパレルで働きたくて。〈N.HOOLYWOOD〉の尾花さんがやっていた古着屋さんで働きたかったんだよね。でも、当時アルバイト枠がなく働けなくて。服だけをとりあえず買いまくる生活をしてた(笑)。

―――そのことを尾花さんは知っているんですか。

S:今となっては知っているけど、当時は本当に憧れの人で全く認知もされていなかったね。僕らの世代って当時ちょうど裏原全盛期だった。1996年〜1997年。僕は浅草だったんだけど、なんとなく浅草のファッションが合わなくて。最初アメ横に服を買いに行ってた。そこから雑誌とかの情報で原宿や渋谷を知って、なんだここはみたいな(笑)。それからは大体原宿と渋谷に行っていたから、高校生活はずっとその辺にいたね。

―――アパレルから飲食の道に変わったのはなぜですか?

S:18歳の時にバーで働いたのも、アパレルの世界とどうにか繋がりたいと思って始めたんだよね。あとは沢山の人と繋がりたいという思いはあった。実際に18歳のクソガキが24、25歳のお兄さんたちと遊べたり、30歳の今をときめくスタイリストさんや写真家さんたちにも出会えたり。もし昼間に知り合っていたら、業界の先輩と後輩の関係でしか話せないような人たちと、夜でバーでこっちは店員だったからある意味で対等。その立場を利用しないと逆にやっていけなかったっていうのもあるけどね。当時は浅草からそのバーがある西麻布まで通っていたから、正午にやっと寝れて、夕方には出勤しないといけなかった。本当に昼夜逆転だし、全然寝れてなかったね。そこのバーでは5、6年働いていたと思うんだけど、2年半くらい記憶がない(笑)。

―――でも、タフに頑張れるってすごいですよね。

S:同世代でクリエイティブをしている方々っていっぱいいると思うんだけど、そうゆう方たちと僕はやっぱり違うなって思っていて。僕はやっぱり「基本は飲食」というスタンスは曲げられない。やっぱり飲食で色々なことを表現していかないといけないと、自分に課してるね。

Moriyan(以下:M):ちょうど1年前くらいに茂のことを凄いなって思うことがあって。「Tokyo BURNSIDE」を作った時に、ウェブサイトを作ろうとしてたんだよね。その時にニューヨークにあるNew Studioに頼んでいて、そんなところにまで人脈があるんだってちょっと驚いた。でも実際に茂に聞いてみたら、「別に繋がってないよ。New Studioがかっこいいから一緒に作って欲しいって問い合わせして連絡したんだよ」って。なんだかこういう純粋な感じ忘れてたなって思ってしまって、プロデューサーとして、サイトを作るにも忖度なしにかっこいい奴らとやる、声をかけるのがすごいなって。本当に目から鱗だった。

―――昔やっていた「岡田龍平」はどういうお店だったと思いますか。

S:ネオ居酒屋って今はすごいあると思うけど、あれのはしりだった気はする。業界人と呼ばれる人たちが行くようなお店は、当時は「なるきよ」か代官山で岡田さんがやってる「立道屋」かうちしかなかった。それか「藤八」みたいなTHE・サラリーマンとかが行くようなお店。だから「岡田龍平」っていうのを作って、選択肢が一つ増えたという感じかな。

M:確かに当時、ファッションの人が行く居酒屋なんて本当にそのぐらいしかなかったよね。

―――それはプロデューサー的な発想ってことですよね。

S:いやいや、当時はそんなこと考えてない(笑)。 まず、僕がやりたいことをやる。やるならこうみたいな。でも、当時はいきなり吹っ飛ばすことはできなくて。僕はトイレ掃除から始めてるしね。もりやんだっていきなりトッププロデューサーに若いときからなってない。今の子たちはそうゆうチャンスはあるかもしれないけど、僕らの時代でいきなり吹っ飛ばしてる人はいなかった。白いものを黒だと思い、黒だと思っても白ですねって言ってる時代だった。やっぱそういう下積みというか、そういうときはあったけど、常に僕だったらこうするなと考えて生きてきたね。

―――「岡田龍平」の後は何をされていたんですか。

S:紆余曲折あり、そこから沖縄に行ってタコス屋さんの「メキシコ」ってところで働くことになって。

M:「メキシコ」は超有名なお店。沖縄だったら、業界人は誰もがいくタコス屋さん。

S:お店を始めて3年が経って、一区切りしたから「岡田龍平」を辞めることにして、家族で沖縄に引っ越すことになった。幸いにも沖縄には友達がいたから、「メキシコ」で働くことになった時はめちゃくちゃ驚かれた。自分たちのネイバーフッドで有名な店で、家族経営なのになんで茂が「メキシコ」で働けるんだみたいな(笑)。 たまたまそこの近くに引っ越して、「メキシコ」が好きだから週5で食べに行ってた。お店の人たちが僕のこと気になり始めて、オーナーさんに何やってる人なのって聞かれて、「働けるところを見つけたいんですけど、ここで働けないですよね」って言ったら、明日からやるって言われて。ただ、やっぱり沖縄って時給が安くて稼げないから、辞めることになって。その後、たまたま先輩がロサンゼルスで飲食やっていたから、半年間だけ行くことになって。

―――本当にずっと飲食なんですね。LAのときは何をやっていたんですか?

S:本当に飲食以外やったことないよ(笑)。 ロサンゼルスにあるラーメン屋で、結構給料がもらえたから、5ヶ月くらい働いた。寮みたいなところも借りてもらったから、お金も使わなくて。仕事して帰ってきて、たまに休みの日にどっか行っての暮らし。でも、元々半年ぐらいしか働けないって言われていたから、半年経った時に、沖縄に帰るのはやめようと思って東京でフィッシュバーガー屋さんの「デリファシャス」を開いたんだよね。

―――「デリファシャス」が始まったのはどういう流れだったんですか?

S:ちょうどその時仲良くしていた人がもともと「銀座青空」っていうお鮨屋さんで働いていて。ハンバーガーと日本の鮨職人の技術を合わせれば面白いじゃんって思ったんだよね。

―――その後、「麺散」をオープンしたんですね。

S:「デリファシャス」を辞めて「麺散」ができたのは6ヶ月後。今の会社、en one tokyoに入社して、最初は毎日出社していたのに何もできなさすぎて、その期間はすごく長く感じたね。実は僕が入る前に「麺散」があった場所でカフェをやってて。

M:多分、その頃は僕たち頻繁に会ってないね。僕もちょうどそのときは自分で何やろうって考えてた時。そこそこ業界にいると人脈もできるし、面白い人にも出会える。だけど、反面教師ではないけど、人脈だけで仕事するのが嫌だった。人脈は持ってるけど中身がないみたいな。そういうやつが僕の周りに多かった。こいつ何してるかわかんないけど、人脈はある。あの人もこの人も知ってていうのがわんさかいて。僕もその一員になってしまっていて、ちゃんと軸をを持たないとやばいなって感じたのが2016〜2017年だね。

S:久しぶりに会った時に、もりやんは〈immaちゃん〉やってたもんね。それで麺散で撮影したいって話をさせてもらって。

M:それ結構初めの方だよ。もちろんやってよって話をしたのはすごく覚えてる。そこくらいからまた飲もうよとか、やり取りするようになったよね。彼の周りで遊んでいる人たちと僕は知り合っていくようになって。彼の周りの仲いい人とも仲良くなってから遊ぶ回数も増えていった。やっぱり彼らの周りってすごいクリエイターが多いから、それが励みになる。今もそうだけど、僕も違う形で頑張ろうって活力になるよね。

―――半年で「麺散」をオープンさせた時って何で「麺散」になったんですか?

S:いろんなとこで言うんだけど、僕は場所先行型。この場所だったらこれかなって。en one tokyoは原宿って街を拠点にしているから、ここにこれがあったらいいなって思うことってあるよね。そこで僕がやれるものをとりあえず机に全部出す。そこから全部を手繰り寄せて、カレーやハンバーガー、うどんでもそばでも何でも。全部いいけど、手繰り寄せていった時に、これがいいなと思ったのがうどんだった。うどん屋をやりたいなんて全く思ってもなくて。でも、こんなうどん屋が原宿にあったらいいなと思って作ったのが「麺散」。だから、これだけ人気が出て良かったなって思ってる。

―――もりやんさんから見て、茂さんってどういう人ですか?

M:飲食の天才?でも、やっぱプロデューサーかな。何かやれば必ず当てることができる。心の中心にどうしたら人が喜ぶんだろうっていうのを茂は考えてんだろうなって感じだね。

S:それを考えないと成立しない仕事だからね。

M:昔の原体験が飯だったけど、今は飯だけじゃなくなったって感じがする。この人とこいつ混ざったら、面白いかなとか。そういうところまで領域が広がっている。今は飯×飯でもあるけど、人×人だよね。ただそこで元々カルチャーが好きで、洋服が好きで育ったっていうところが重要な気がする。

S:そうそう。僕は人が好きなのかもしれないね。

M:この先も楽しみで、たまに2人で未来の話をするんだけど、やっぱり茂からは海外進出の話も出るのよ。

S:そうだよね。「麺散」の海外展開は考えてる。

―――海外なんですね。日本での新店舗は考えていないんですか?

S:渋谷とかに「麺散」の2号店を出したいなと思ってはいる。ただ、僕ともりやんは食が好きなんだけど、地方には地方の良さがある。プライベートだったら、わざわざ地方で東京のバズってるうどん屋さんなんかに絶対行かないもん(笑)。 色々なところに行って、やっぱりそこの土地で流行ってるところに行きたいじゃない。でも逆に、地方の人たちは東京で流行ってるものに食いつくなって。だから、僕がやってるからってすごい有名で人気があるうどん屋さんを地方に出そうっていうことは僕は全く考えていない。むしろ失礼だと思ってる。たまたま去年はいろんなことにチャレンジして、コラボなどもやったから、それを海外の人が見たときにすごくやりやすいんじゃないかなと思ってるけどね。

―――これだけファッション業界の人たちといろんな仕事をされていたので、どこかのタイミングでファッションを経て、飲食をやっていたのかなと思っていました。

S:クリエイティブはどうとか語る気は全くない。そういうことができる人たちは周りにたくさんいるから。僕はどちらかと言うと「これやったら面白そう」とか、「これやったらいいんじゃないか」を飲食ベースで考えてる。

―――飲食に限らずですが、手に取りやすい金額のものと高級なものがありますよね。もちろん、それぞれに良さがあるとは思うんですが、茂さんはみんなの手に取りやすいものをやられていると思います。それは何か意図があるんですか。

S:それは単純で、僕がハイエンドなレストランで働いたことがないから。行くことは勿論あるよ。そういう人たちとのコミュニケーションはあるけど、僕がやったらフェイク。だから、僕は1000円で感動させる方がいいんじゃないかなって。僕が3万円、4万円のお店を始めますって言うのはお門違いだと思う。僕がそんな立場じゃないから考えてないって言うのもあるけどね。

―――飲食業界で働く人が減ってるという話をよく聞きます。それについては?

S:飲食って入口は広いんだよね。資格もいらないし、やる気があれば明日から働くことができる業界。ただ、稼げない。労働時間が長い。結構大変。それに、今は選択肢って他にもいっぱいある。それに加えて、コロナを経たときに、どこまでいってもブルーカラーなんだよ。でも、逆に言うと、若い子がやっているいいコンセプトのレストランが増えたと思う。昔にはなかったし。SNSもあるだろうし、発信できるという能力もある。ブランディングを自分たちができて、かっこいいことができる子はレーベルやプロダクションに入る必要がない。それってレストランにも言えて、イケてる店は多くなってると思うんだよね。

―――5年後10年後に下の世代から茂さんやもりやんさんみたいな人は出てくると思いますか?

S:出てくるでしょう。僕なんかもう抜かれまくりよ(笑)。

M:若いやつは若いやつで色々考えて、面白いやつがいっぱいいる。伸びしろや可能性しかない。カルチャーが好きなのは、若い奴とフラットに接することができるからだね。

Interview & Text : Yu Yamaki
Photo : Ryutaro Izaki

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