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KNOCK ON THE DOOR vol.4 'SNEAKERWOLF'

1月8日から個展「神社 SKATE SHOP」が開催される。2022年一発目の企画はアーティストSNEAKERWOLFの世界観を楽しめるアートショーとなっている。「神社のような江戸時代のスケートショップ」をコンセプトに展開する当企画に伴い、彼のアトリエに訪れた。

描くことは自分を保つために必要なこと

――一番初めに何かを描く、何かを作ることに芽生えたきっかけを教えてください。

僕のようなことをしてる人は大体そうだと思いますが、覚えてないくらい前から絵を描くのが好きだったんですよね。最初は、ガンダムのロボットを新聞広告の裏の白紙のところにひたすら描くみたいなところからたぶん始まったと思います(笑)。周りの人からも褒められたり、小学校に入ってからはキン肉マンを描いたり、友達に「これ書いて!」って言われたものはなんでも描いていましたね。今みたいにお金は取らないですけど、常に頼まれていたし、仕事を請け負っているというような感覚は子供ながらにちょっとはあったような気がします。頼まれているものが溜まっているから描かなきゃいけない、締め切りが迫ってくるという感覚で生きていたと思います。でも、学校の美術の何とか賞みたいなのは必ず何かしらはもらっていたような気がするので、ちゃんと公の評価ももらっていたと思います。そのあとは中学生、高校生ぐらいにスケートボードや音楽などアメリカンカルチャーに出会ってから、少しづつ絵を描くことが減っていきました。

――「頼まれて絵を描く」ことが鬱陶しいと思うことはなかったんですか。

むしろ嬉しかったんだと思います。描くと喜んでくれるから、どんどん自分でハードルを上げてしまって。下手なものは渡せないから一生懸命に描くことによって、腕を上げることができたと思います。運動神経がいいわけでもなかったので。今振り返ると、人によっては特に目立って秀でたものを感じることができない人もいるじゃないですか。けれど、僕はラッキーなことに絵を描くことで人に喜んでもらえる、そこに自分の存在意義を感じていたのかもしれません。

――スケートボードに出会ってからは絵を描くことが少なくなったと伺いましたが、絵以外に好きなものができた時、最終的に絵を描く仕事に繋がったのはいつなんですか。

実は、僕は中学生になった頃ぐらいからずっと美大への進学を意識していたり、絵を描くような仕事に就きたいし、就くだろうなって思っていたんです。でも、高校卒業後の進路を決めるタイミングになって、家の事情で結局美大に行けなくなってしまって。その時に、美大に行くのはもういいやってなってしまったんですよね。専門学校にもいけなかったので、絵に携わる職業には就きにくかったんですよね。それでますます描かなくなってしまいました。スケートボードや音楽に夢中になりましたが、仕事に繋がるということはありませんでした。ただ、それらを通じて裏原カルチャーを好きなったことで、海外のスケートブランドや原宿のブランドのようにTシャツを作れば、自分を能力を活かせるんじゃないかなって思ったんですよね。パソコンだけでグラフィックを作る人もいたけど、僕は手で描いたのをグラフィックにすればいいと。そうすれば、とりあえず絵を描くことができる。あとは、マークゴンザレスなど海外のスケーターが絵を描いていたり、音楽をやっていたりということを知って影響を受けたのもあります。常に絵をやりたい、そういう仕事をしたいという気持ちはあったんですが、正直なところ、上手くいかなかった時期も長かったですね。

――学生時代にスケートボードにハマり、カルチャーがグラフィックや絵と繋がった瞬間を覚えていますか?

スケートボードを好きになった時は、ビデオにヒップホップの曲を使い始めた時くらいで、ちょうどファッションもズボン太めみたいな。大人になって振り返ると、小学生の時にキース・へリングがものすごい好きでTシャツなどを着ていたんですよ。当時は、服やらグッズやらをたくさん買ってましたね。その時は勿論、グラフィティアートやストリートアートという意識は勿論なくて、ただビジュアルとして好きなだけ。その後中学生になって、グラフィティアート、文字を電車に描いているのがすごい新鮮で。情報も今みたいに手に入りづらいですしね。だから、情報源がスラッシャーマガジンだけみたいな状況だったので、ほぼ同時にグラフィティとスケートボードどちらにも興味を持ったと思います。ストリートの汚い感じ、不良っぽい感じがすごくカッコイイと思っていました。自分でスケートビデオを観て、流れている音楽を聴いて、そこに写っているグラフィティーなんだろうなと。とにかく当時の僕は、日本のものは全部ダサいと思っていました(笑)。シンプルに、アメリカの不良っぽいものがカッコよく見えたんですよね。だから、幼い頃からアニメでも悪役の方が好きなのと一緒で、ガンダムでシャアが好きとか、ダークヒーローみたいな。その流れで、ちょっと悪い方がカッコイイと思う流れはあったのかもしれないですね。

―――90年代前半に東京のストリートの狼煙が上がった、その当時はどういう風に楽しんでいたんですか?

元々はアメリカカルチャーの延長で、僕が知ったのは宝島という雑誌で、藤原ヒロシさん高木完さんが『Last Orgy』という海外のカルチャーや音楽、物などの面白い情報を紹介する連載をやっていて、その時は中学生だったんですが、ただのファンって感じで読んでいました。ロンディスというグッドイナフやNIKEとかを扱っているお店があって、そこも結構好きで行ったりしてました。その後JONIOさんやNIGO®︎さんの『LAST ORGY2』が始まり、ノーウェアが誕生し、ブランドも増えて。いわゆる裏原宿カルチャーが盛り上がるにつれて、僕も絵を描きたい衝動をこのフィールドでならできるかもと思い、自分でもやりたいと思うようになりました。アメリカで美術教育を受けることができなかった若者がグラフィティアートに救いを求めたように、東京にいた僕にはTシャツがそれだったのかもしれないですね。

―――そこからどのようにファッションの方に関わっていくことになるんですか?

美大に行けなくて挫折した時に、絵を描く能力を活かせるところがファッションに感じたのですが、そういったブランドで働くということも出来なかったので、見よう見まねでTシャツを作ってみたりもしました。最初はまったく売れないから、全然続かなかったです(笑)。ただ、ちょうどその頃は、裏原宿を中心にマーケット自体が大きくなっていて、こんな人でもブランドできるんだってぐらい、ブランドが急増してたんです。そうなるとだんだん、「Tシャツのグラフィック描いてくんない」みたいな話が、ブランドを立ち上げようとしている人たちからくるようになって始まった感じです。振り返ると本当に小学生の時の絵を描いてよ、みたいなのと同じような感覚で再スタートしています。その後、様々なところからグラフィックをお願いされて、少しずつご飯が食えるようになりましたけど、最初は全然食えてはいなかったので、アルバイトをしながらって感じです。NIKE AIR FORCE1 UENO SAKURAのグラフィックや、Supremeのウインドウペイントなど、大きい仕事も頼まれるようになりました。

――スニーカーウルフという名前はいつから使うようになったんですか。また、なぜアートピースを発表するようになったんですか?

確か、雑誌のスニーカーの特集ページで、ミタスニーカーズを筆頭にその近辺の友達も数人まとめて、特集やるから出てくんない。という話になったんです。その時のアンケート用紙を記入する時に、カッコいい芸名みたいのにしたいなと思って。当時好きだったPEANUTS BUTTER WOLFというHIPHOPグループの名前をパクっただけなんです。それがたぶん二十年位前。適当につけた感じです。いつ辞めてもいいくらいです(笑)。僕は何かが起爆剤となって仕事が増えたってことがなくて。いつもまわりの仲間が仕事を頼んでくれて、それに精一杯応えて喜んでもらうことで生きてきたって感じなんです。頼まれて描く職人のような。その間、壁に描いたり、小さいものを展示したりもありましたが、アーティストという意識は全くなくて。あくまで、グラフィックの延長でやっていました。一方で、発表することはなかったですが、小さいアートピースを作ったりスケッチブックに描いたりはずっとしていました。ただ、アーティストに対して、尊敬の念もあるし、ひがみや嫉妬もあったり。また、教育を受けていない自分がアーティストと名乗ってはいけないと思っていました。それに「僕、アーティストじゃないから」と、逃げられる。作ったものが自分的にイマイチだったとしても、「僕は職人で、アーティストじゃないんで」って。クライアントがOKならOKです、みたいな。極端な話、頼まれたものをやっているだけなんでって逃げれちゃう。ただ僕の場合、自分のスタイルを出させてもらう仕事が多かったので、頼まれたものを描いているとしてもアーティスト扱いされる。けれど、仮に自分がその仕事に納得していなかったとしても、OKをクライアントが出している以上成立してしまう。でも良くなかったのなら、その責任を取らなきゃいけない。周りはアーティストだと思っているから。それを言っても逃げているように写ってしまう。それがすごく嫌だったし、ちょうどその狭間だったのかもしれないですね。少しずつ仕事が大きくなってきて、アーティストじゃないって説明するのも面倒くさいし、頼まれたものを描いているから、僕の責任じゃないとする自分も嫌だし。その時にたまたま読んだ本で横尾忠則が画家宣言をしたのって42歳ってことを知って。当時、僕も同い歳だったので、そういった面倒くさいことはやめて好きなことやろうと思ったのがきっかけです。そこからキャンバスに描くといった作品制作を始めました。

――そのアートピースを作ることと、クライアントに頼まれること、どういった違いがあったり、楽しさがありますか?

アートピースを制作することは、面白いし楽しいです。ただ全責任を負わなければいけない。頼まれた仕事は嬉しいけど楽しくはないかな。ただ、全ての責任を負う必要はない。楽しくはないと思いながらやってはいますが、絵を描くことは自分を保つために必要なことなんです。それしかなかったというか、若い時にたくさん嫌な思いをしてきて、小さい頃から続く「絵を描く」という行為だけは自分を保つために必要不可欠なんです。仕事として頼まれたとしても、描く行為が自分を救済しているというか。頼まれて描く行為は楽しくはない。ただ、小学生の頃からそうだったように自分の存在証明のようで絶対に必要なもの。でも、やっぱり楽かもしれないですね。自分でコンセプトを立てて、全責任を負うより(笑)。さっき言ったとおり、責任を取らなくていいですしね(笑)。それにやっぱり頼まれることは嬉しいです。小学校の頃から変わらずに。

シンプルに楽しめる方がいい

――今回の展示のアートピースは責任が伴うと思うんですが、それは苦しいものですか?

絵を描くことは必要不可欠なことであるのに、アートピースを制作することはものすごく苦しみます(笑)。幸せな苦しみ。個展のお話を頂いたり、展示して生活できることはとても有難いことです。ただ、僕は毎回新しいことをやろうとするので、ものすごく不安になります。また、僕の絵を観て何かを感じてくれた人に対する責任。僕はかなり職人気質なので、作品を作ることに関してものすごく品質にこだわるし、いい加減なものは出せないという責任も感じています。例えば、僕が作ったTシャツを買う人、絵を観に来る人、絵を買う人、っていうその人たちへの対価、生活を考えちゃうんです。自分のことに関わらず、どんなことでも常にそういう背景や影の部分が気になっちゃうんです。僕のTシャツを5000円で買うとして、大学生が5000円を稼ぐとなると、5時間働かなきゃいけない。僕にとってはシャシャシャっと描いて得る5000円かもしれない。そこを間違えないようにしたいという意識があります。その5000円って、交換条件としてお金で換算しているだけで、その人の人生の時間の交換だと思うんですよね。もしかしたら、嫌な上司の下で働いた5時間かもしれない、だけどその人が買って良かった、行って良かったと思えるように頑張らなければいけない。そういう責任感や意識が強くあるので、制作以外の部分では苦しみというよりもプレッシャーがありますが、これも必要不可欠なものかと思います。

――今回、年始に展示を開催する意味や意義はありますか?

個人的にはいつでも良かったんですが、独りよがりな展示にはしたくなかったの。僕は和のもの作っている意識は全くないけど、どう見られているかといったら、やっぱり和。DAYZというお店を盛り上げたいと考えたら、1月、お正月の開催を提案しました。僕がどうしてもそこでやりたい理由があったというよりも、みんながシンプルに楽しめると思って1月にさせてもらいました。

―――今回の展示のテーマはどのように練っていったんですか?

最近は大きい作品を作ることが多かったので、小さいピースの作品も作りたいなと思っていました。今回の展示の時期がお正月なので、関連付けた作品を考えていた時に、神社に初詣に行くと絵馬を買って願いごとを書いて神社にくくって帰って行く。それでアートピースも絵馬のサイズでやったらどうかなと最初に考えました。この展示では既に飾ってある絵馬を買うという、通常とは真逆の行為にストリートっぽさを感じて。 ただ、絵馬で作っても面白くないと思い、中古のスケートデッキでやったら自分らしくもあり、宮下パークという場所も表現できるので、そこから肉付けしていった感じです。作品ありきというよりも、全体のコンセプトありきです。明治神宮に初詣に行って、その流れで宮下パークでストリートな初詣。DAYZはじっくり一つずつ絵を観ていく場所じゃないですし、お正月なのでみんなを楽しい気分にさせることができればと思ってます。

Interview & Text : Yu Yamaki
Photo : Ryutaro Izaki

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