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CIRCLE OF DAYZ vol.8 Katsutada Mano

DAYZ」と結びつきの強い人物や「DAYZ」が心惹かれる人物についてじっくり深掘りしていく「CIRCLE OF DAYZ」。第8回は東京を代表するブランドRATS15周年を記念した展覧会"FULL BLOOD"開催に伴い、〈RATS〉ディレクターの眞野勝忠にインタビュー。 

彼らが俺の人生を変えてくれた

――バックグラウンドを教えてください。

お母さんが音楽好きで、俺らに音楽をやらせようとしたんだ。お父さんは酒飲みで、四畳半一間の団地に姉弟三人で住んでいて、楽器ができるような環境じゃなかった。それでもお母さんは音楽をやりなさいって。その時、小学校ではちょっとワルなやつは野球をやるのが流行ってたから自分も野球はやってたんだけど、俺はトランペットもやっていたんだよね。弟はサックスをやって、お姉ちゃんはメロフォンで全員が管楽器。ブラスバンド部だったんだけど、海外交流があったり、テレビに出たりしたんだよ。それが音楽を始めたきっかけ。当時50'sのものが流行っていて、お姉ちゃんも50'sのファッションだった。フレアスカートとかを履いていて、原宿からすごい楽しそうに帰って来ていた。当時は新小岩に住んでいて、すごい下町だったから原宿に行きたいって思ったんだよね。お姉ちゃんの周りの人はツッパリだったり、リーゼントの人がいたりで自分もそっちに引っ張られて。それで、小学六年生の時に初めて原宿に行った。〈CREAM SODA〉のドクロマークにとても憧れを持って、そのお店がある原宿へ友達のお父さんに連れてってもらったんだけど、お姉ちゃんのヒッコリーの洋服を借りて行ったら、「この子可愛いじゃん」って言われたのがすごい嬉しかったね。でも毎週は行けないから、お小遣いを貯めて行くわけ。高いから洋服が買えなくて、缶バッチや財布を買ったりした。俺にとってはすごい価値のある宝物。ある日先輩にふざけて財布を盗られた時、お母さんに取り返してもらったよ。貯めたお金で買ったものだから、当然中身はスカスカ。でもお金が入っていようがなかろうが、すごい宝物だった。そんな思い出があるな。

――その時ってどんな遊びをしてたんですか。

何にもしてないよ。ただ集まって音楽を聴いたり。トランペットをやっていたから、バンドに参加したり。スペクトラムのコピーをやっていたんだよね。中学三年生の時にウッドベースは少しやったかな。俺のお母さんってすごい変わっている人で、『アメリカン・グラフィティ』とか『グローイング・アップ』を性教育として見せてくれたんだよね。だからうちの親父っていう、変な男に引っ掛かっちゃったんだよ。うちの親父は本当にチンピラみたいな人で。うちの家は相当変わってると思うよ。でも当時は団地が多くて子供も多かったから、寂しい時は助け合っていたかな。

――中学生の時も原宿に行ってたんですよね。

中学時代はとにかく原宿の空気に触れたかった。中学校の先輩たちが日曜日にキメキメで原宿へ行ってることは知っていたわけ。でも、その先輩たちはメタル系だったんだけど、一緒にバンドをやっていた隣の中学の人たちはロカビリーで仲が良かった。その先輩たちとは別の何人かの友達とよく原宿に行ってたんだけど、何せお金がかかるのよ。片道280円で往復500円以上。お小遣いを交通費に使おうってなかなかならないよね。だから、交通費を稼ぐためにお金を必死に貯めたね。

――当時の原宿の空気はどんな感じなんですか。

全然違うよ。もう遊園地。電車を降りた瞬間の人の多さも、香ってくる匂いも。当時ポマードが流行っていたこともあって、色んな匂いがした。その匂いを嗅ぎながら目的のところに行くと、それぞれのカラーで人のグループがあって。それを見ているだけで洋服を選んでいるのと同じような感覚があったんだよね。十五歳くらいの時かな。高校には行きたかったんだけど、中学一年生の時から全く勉強してなかったんだよね。当時はどうも思わなかったけど、今思い返すと本当にどうしようもないよね(笑)。高校に行こうと思ってたし、とにかく勉強しろって言われて、家庭教師をつけてもらったりいろんなことをやってもらって。初めて乗ったバイクがその家庭教師のホンダのバイク。原付バイクは乗っていたけど、俺の親父がすごい厳しくてバイクは絶対ダメな家だった。何やってもいいけど、バイクだけはダメだって。うちの家はとにかく親父の言うことが絶対の家だったから、その言いつけは守っていたんだ。それでも俺はバイクに乗りたかったから、なんとかして乗せてもらってた。初めて乗った時に家の周りを一周できたんだけど、最後にブレーキを踏んだらかけ過ぎて倒れちゃって。その時にバイクって難しいんだなって気づいたんだよね。それからは少し乗らなかったかな。なんか親父の顔が浮かんで、これやばいかもなって。

――眞野さんのバイクとの出会いは中学校の最後だったんですね。

そうそう。でも結局高校には行かなくて。中学の卒業式はみんなバラバラになるし、なんか不安だし、良いことも悪いことも助け合っていたから深い絆があった。すごい泣いたんだよ。俺は地元の先輩の家業がカーテンレール屋だったから、そこで働くことになった。全身作業着で鉄鋼靴を履いて毎日通勤していたんだけど、みんなはかっこいい高校の制服を着て、電車に乗って登校してたからギャップがあった。俺は工場に着いたら、朝礼に出て今日の目標の発表するという生活。それが刑務所みたいですごい嫌だった。長くは続かなくて、一年半で辞めてしまったんだよね。その間も原宿にはずっと行ってた。それから原宿でギャンブラーズになるんだけど、その界隈で憧れている人たちと仲良くなりたくて、お姉ちゃんに連れて行ってもらって初めて椿ハウスに行くのよ。その時、スタジャンを着て、アーガイルの靴下とコインローファーを履いて、リーゼント。50'sの格好だよね。そしたら「お前、ワクワクに似てるな」って言われてさ。ワクワクって言うのは隣の中学校の先輩たちのこと。ワクワクホリデーっていうチーム名で。もちろん自分の地元の子とは仲良かったんだけど、隣の中学の子とも仲良かったから、毎週来いよって言われて。

――当時、服装でチーム名が分かったんですか。

当時は服装のスタイルが濃かったと思う。今みたいにブランドが沢山あるわけでもなく、ブランド云々ってよりもスタイル。古着も多かったし、醸し出している雰囲気がファッションによって違ったんだよね。スマホとかもないから、当時は感覚的に東京のどこっていうのは分かったかな。そこから、俺は必死になって行ったわけよ。それで段々と認められてくるんだけど、一番憧れていたリーダーが卒業してしまって。それでもテリトリーだからウェンディーズに溜まって、ちゃんと注文しないと怒られたけど、それ以外は怒られなかったし、警察を呼ばれることもなかった。ウィンディーズの隣には〈Goro's〉のゴローさんたちがいた。ゴローさんはもちろんすごい人だけど、荷物の見張りを頼まれる仲だったね。ゴローさんの娘さんのお世話をしてたら、その様子をゴローさんが見てくれたみたいで。俺が買ったフェザーに細工してくれたり、ブレスレットにしてくれたり。俺たちにはすごく親切にしてくれていたと思う。

――その後、90年代に入ると原宿が盛り上がってくる時期ですよね。

その時くらいからウェンディーズで溜まるのをやめて、渋谷で遊ぶようになっていくんだけど、ギャンブラーズは少しずつ難しくなり始めた。自分自身も50'sのスタイルから変化していた時期で。みんなを裏切るわけではないんだけど、洒落っ気付いて渋谷に行くと、〈TIMEWORN CLOTHING〉の逸見馨に会った。原宿で会ったことはもちろんあるから、再会という表現の方がいいかな。すごいキメキメでかっこよくて、毎週来なよって言われたから、渋谷通いが始まるんだよね。渋谷で遊んでいると誘惑がたくさんあったから、それでダメになっちゃって。東京から離れて、ある程度落ち着いてから戻って来る時に、お姉ちゃんの紹介で中目黒にあるVIVっていうバーで働き始めたんだ。俺は学歴も何もないし、なんの努力もして来なかったから職人しかできないわけよ。ガッツだけが取り柄で、職人の仕事は引く手数多の働き者だったけど、人が好きだったから、バーをやりたいと思って。そこで知り合ったのが加藤浩次。お客さんとして来て、偉そうにしていたのがマッコイ斎藤だった。

――そのバーはどのくらいやっていたんですか。

三年くらいかな。そこで部屋も貸してもらって一生懸命に頑張るんだけど、〈HIDE&SEEK〉の長谷川猛がたまに遊びに来て、原宿が盛り上がってるって言うからみんなで見に行ったのよ。元々俺らの場所だったのに、キャットストリートが異様な雰囲気になっていて、小さいお店がたくさんできていたんだよね。ハーレーのタンクに色を塗ったり。なんだよこれって、段々と嫉妬でイライラして来ちゃったんだよね(笑)。それで一旦バーに持ち帰ったんだけど、そうしたら猛がいい考えがある的な顔で「お店やろうよ!」って。それで何やるってなったんだけど、猛は洋服をやるから、俺にはバーやれって言ってきて。

――〈HIDE&SEEK〉の名前は知っていても、最初にバーがあったって言うのは知らない人は多いと思います。

表向き許可は取れなかったけど、やると決めたらやるしかねえってことで、隠れ家にしようということで〈HIDE&SEEK〉、「かくれんぼ」という名前にしたんだ。そこで表向きは服屋だけど、裏はバーという空間が誕生した。原宿でやっていくためには、俺がちゃんと頭下げてくるって覚悟を決めて。それからだんだんと自分のバーで酒を交わすようになって、安心してもらえるようになったんだよ。〈UNDERCOVER〉のジョニオ(高橋盾)もよく遊びに来てくれたし、〈NEIGHBORHOOD〉の伸ちゃん(滝沢伸介)も〈M&M CUSTOM PERFORMANCE〉のムラ(村上俊美)もバーの下のガレージで一緒にバイクをいじったりしてたね。

――〈HIDE&SEEK〉を閉めて、その後に〈RATS〉が始まると思うんですが、どのような流れだったんですか。

俺がそもそも洋服が好きだったことって誰も知らないんじゃない(笑)。80年代に仲が良かった先輩たちはファッションに詳しくて、古着屋に入ればあーだこーだ言われて。遊びに来てるはずなのに、何で勉強させられてるんだろうって思ったほどで。当たり前のように洋服の勉強を本当にたくさんしたわけ。ただ俺が好きだったのは人で、人と話すことが好きだったから、洋服が好きなことは当たり前だった。だから、どこかに仕舞い込みながら生きてきた。当時、ちゃんと経験を積んでからじゃないと作っちゃダメって言うのがあったから、やろうとは思わなかった。本当は勉強したり、海外にも行きたかったけど、「生きていく」ってことが大前提だったから。親も貧乏だったし、自分のため、家族のためにもお金を稼ぐことが一番大事で。その時に心の支えになったのは友達だったんだよね。

――〈RATS〉を始めた当初はどうだったんですか。

バーを閉めて、本当に途方に暮れていた時に〈WTAPS〉の西山徹に相談したら、自分をテーマに洋服を作ろうって。どういうことなんだろうって思った時に、「眞野くん自身がテーマなんだよ」って言われてさ。いつも集まる時に、テーマを出してきて、細かいところまで話さないといけなくて。その度に、自分自身を考えさせられたわけ。自分は嫌われ者だし、隠れてたりもした。それにぴったり当てはまるのがドブネズミで、ずっと端っこで生きて来たから俺っぽいなと思って。それでネズミの習性を調べたら、しっくりきていいなと思ったんだ。周りのみんなもいいんじゃないって言ってくれて。それで最初はバーをモチーフのTシャツから始まるんだよね。もちろん、事務所は借りられないからネズミと一緒で、ラップトップ一台だけ持って、コピー機を借りて、仕事して、御礼言って帰るわけよ。それの繰り返しだったけど、嫌な顔一つせず、みんな力を貸してくれた。だから俺はみんなに頭が上がらないんだよ。

――今回のイベント〈FULL BLOOD〉はどのように形になりましたか?

過去のことはなるべく振り返らず、思い出さないようにしてきた。だけど、コロナで社会が変わってしまったタイミングで、〈RATS〉の15周年が訪れた。コロナで延期になったり、やりたいことができなくなったりして。でも、何かやりたいと思った時、本当にみんなが力を貸してくれた。本当に感謝しかないし、これからも大事にしたい。彼らが俺の人生を変えてくれたんだよ。ずっと何かを返したかったんだと思う。当時は返せる返せないの前に、がむしゃらに突っ走るしかなかったけど、このタイミングでべべタン(渡辺真史)に声をかけてもらって、できるなら今回のイベントをやりたいって思ったんだよね。そこで俺ができることはこれくらいしかないけど、お願いして、実現した。この年になったけど、物事ってそんなに変わらなくて。若い時にやった悪さも全部、五十歳になっても六十歳になっても、ずっと持ち続けないといけない。だからちゃんとよく考えたほうがいいし、一つ一つを大切にしたほうがいい。友達は本当にかけがえのないものだと思うし、生きていればズレてくる時はある。でも友達は友達。若いから今だけの友達でいいとか、将来のこと何て分からないと思っても、その時は必ず来る。だから、若者とそういう話ができる場所や機会がもっと増えればいいなと思うよね。

Interview & Text : Yu Yamaki
Photo : Ryutaro Izaki

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