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DAYZ AFTER TOMORROW vol.2 Takayuki Moriya

僕たちの東京コミュニティは職業、性別、年齢など関係なく、愛するカルチャーで集まっている。気になる人から気になる人へバトンを繋ぐ、某テレビ番組のオマージュ企画「DAYZ AFTER TOMORROW」。第二回目は、HYPEBEAST JAPAN 阿部勇紀よりバトンを受け取った、映像や、バーチャル、テクノロジーなど、多岐にわたる分野でのプロデューサーとして活躍する守屋貴行にインタビュー。3DCGを駆使し、SNSの世界に存在するバーチャルヒューマンを作るなどクリエイティブとビジネスで最先端をゆく彼のバックグラウンドとこれからを訊いた。

To 守屋貴行 from 阿部勇紀 MESSAGE

出会ってからそこまで年数は経っていませんが、今では何でも相談できる頼もしい友人です。Awwのオフィスに入り浸ってすみません(笑)。

To 阿部勇紀 from 守屋貴行 MESSAGE

プライベートから仕事までいつもありがとうございます (笑)。また、いつものように未来の話をしましょうか (笑)。

前回登場した阿部勇紀氏とAww incにて。

―――カルチャーに興味を持ったきっかけはなんですか。

守屋:小学生の頃からずっとカルチャーなものは好きで、ファッションやクリエイティブに関わることはずっと追っかけていたし、兄がいたので年配の人のクリエイティブ、5・6個上の世代のカルチャーを追っかけていることが多かったように思います。

―――少し歳の離れた兄弟がいるとそこからの影響ってかなり大きいですよね。

守屋:そうですね。だから家にあるものは全然同世代とは全く違った記憶があります。中学校からずっと2PACを聴くみたいな。トラックメーカーもどきもふざけてやっていましたね。横浜市の泉区に住んでいたんですが、当時ロゴスっていうクラブがあって、元町にある超渋いヒップポップのクラブだったんです。そこに高校一年生の時に初めて行って、周りがみんなDJ始めてたり、もう家でひたすらNice&Smooth聴いたり…。あの世代のギャングスターがちょうど全盛期だったと思います。ちょうどOZROSAURUSが出てきたタイミングだったので、横浜元町やファイヤーってクラブに行けばOZROSAURUSいるし、ヒップホップやそのカルチャーがずっと好きだったというか、ずっと関わっていました。でも、高校入る頃からは全く別のカルチャーにハマっちゃったんですよね。

―――ヒップポップから次は別のカルチャーですか。

守屋:人と同じことが嫌いで、奇抜で凄まじい洋服を着るようになりました。まずデニムを真逆に履いているし、ナンバーナインばかりだったので、ナンバーナインのシャツにグッチのスカーフ、さらにマリリン・モンローのネクタイ締めるみたいな。めちゃくちゃでしたね。笑 でも中高生の時はとにかく洋服に夢中で、洋服に関わっていたい気持ちが強かったので就職も洋服屋さんだろうなって思っていました。最初は服飾がしたくて色々なところを受けても「まずは店員です」って言われてしまって。でもアパレルの店員がやりたくないし、俺そんな時間ないなって。結局2、3つ目に好きだった映像とかグラフィックの仕事に決めて、大学のときにインターンで色々な所に行って、デザイン会社に入って、そこでデザインを覚えて、映像の会社に入りました。なのでキャリアのスタートは映像ですね。

―――そうだったんですね。大学時代にアパレルでは働かなかったですか。

守屋:実はアルバイトが本当に嫌いで、友達と当時流行っていた代々木のフリーマーケットでいろんなアイテムをセット販売したりしていたんですよ。古着屋でTシャツとジーパンをセットで300円とか400円とかで買って、それをフリマで1万円で売る。このTシャツ単品だったらダサいけど、この組み合わせで買ったら面白いなっていうので、代々木のフリマがかなり流行っていたことも相まって、儲かんじゃん!みたいな感じ。実際は儲かるほどではなかったですけどね。就職のときはショップ店員をやりたくないっていう理由でアパレルをは諦めてしまいました。

―――大学ではどういったことを学んだんですか?

守屋:経営学だったけど、正直、何を学んだかのか一つもわからないっていうぐらい遊んでいました。友人の元エウレカの赤坂と365日一緒にいたんじゃないかな。ダーツするかビリヤードするかボーリングするかみたいな。本当にやることもないし、マーケティングのゼミに入れたら勝ち組みたいな大学だったんですけど、大学3年生の時に俺だけ落とされてすごい焦ったのは今でも覚えています。周りがかなり頑張り出してきていて将来やばいかもと思って、もう現場に行こうって行ったのがデザイン会社と博報堂。博報堂にまず入って、在学中に博報堂でコピーライティングをやっていたんですけど、代理店の仕事があんまり面白くないなって思ってからはデザイン会社に行きました。そのときはメディアばかり気にしていたので、広告業って多分メディアが変わったら終わるんだなっていう肌感があって、その時にコンテンツを何かやろうって思ったんですよね。デザイン会社でillustrator、photoshopとかデザインをずっと勉強して、ウェブデザインもやって…。その中で初めて映像を知って、その時に映像を作るっていいなと思ったんです。当時かなり暇で1日5、6本映画を見る人だったので、レザボア・ドックスとかユージュアル・サスペクツみたいな系統が大好きで、映像って面白そうだなって当時は軽いノリみたいなところはありました。

―――自分のやりたいものが結構明確ですよね。

守屋:そんなことないよ!ちょうど僕の年代ってギリギリ全てが変わるタイミングで、ネット検索で動画が出てくる時代じゃなかったから。社会人5、6年目までそんな時代じゃなかったね。今でこそいろんな検索で出てくるけど、あのときってまだこの部屋に山積みでVHSとDVDがあるみたいな。それの資料を見るために一つ一つ、仕事で1日100本くらいの映画から資料を探していましたね。ずっと映画見て、このシーン使えるってなったら、テープをダビングしていくみたいな。それをFINAL Cutに入れて、編集して資料にして監督に渡すみたいなことをガチで1週間寝ないでやるのが日常でした。

―――本当に過渡期だったんですね。結構な差ですよね。

守屋:けど、すごく良かった時代っていうか。僕はあれがあったからすごい知識増えたし、無駄なものを見るっていう価値を学ぶことが出来ました。今は検索にストンと行っちゃうから、あの時代にそうゆうことができたのはよかったなと思います。

―――雑誌や本のメディアがどんどん衰退していっているので、今の若い世代の子たちは本当ピンポイントな検索をすれば、直で情報が出てくるとか、それが簡略化されすぎちゃっているのはすごく感じますよね。

守屋:でも、だからその便利さに飽きてて、若者が「無駄という価値」をあえて求めてる感じはするけどね。クラブに行ったり、リアルな場に行くことが多くなったりとか。結局無駄を少しは求めてるのかなって気はしています。

―――レコードが最近流行ってきたりとかもそうですよね。アートとかそういうのももしかしたら紐づいてるのかもしれないですね。

守屋:だから別に全然現代を否定してる側ではないです。むしろ、いい時代だなと思っています。

―――話は戻りますが、それからどのように今の事業に展開していったんですか。

守屋:ずっと変わったやつではいたと思う。勝手にプロデューサーの名刺を印刷して、クラブで毎日遊んでいたし、勝手に同世代と一緒にコマーシャルを作ったり。当時、31,32歳でプロデューサーっていう通説があったけど、誰が決めたのみたいなことを社⻑に言ったりして。すごくKYなやつでしたね。「仕事取れればプロデューサーでしょ」って言って、勝手にプロデューサーって名乗って仕事取って、勝手に映像を作ったり。でもそれが結構いい映像だったんですよね。そこから映像がスタートしたんですけど、ちょうど俺の世代って狭間で、例えばさっきの親友とかもそうだし、同世代が割と就職もしないで会社を作るIT長者が出てきちゃった時代。それが今同世代でITで活躍してる人たちなんだけど。だから映像って当たり前だけど、人からお金をもらう仕事。それとはまた違うマネタイズを俺のプライベートの友達はみんなしてた。ものを売ったりとか、アプリ作ってBtoCやったりとか、通信ビジネスやったりとかを近くで見ていて。そっちの刺激を受けながらも、クリエイティブが好きだったので、ものづくりは続けていました。特に映像に関しては、メディアが変わった瞬間に食えなくなるんだなっていう危機感をずっと持ってましたね。

―――メディアが変わった瞬間に食えなくなると思ってたきっかけはなんですか?

守屋:基本的に広告代理店から仕事をもらうことが多かったので、そこの決算書ばっか見ていて。フェイスブックとインスタグラムが広がってきたのもこの時だったので、割と自分の中では衝撃を受けて、メディア転換期が来るなって思ったんですよね。

―――そういう明確な意識があったんですね。

守屋:気づけばテレビもそこから見なくなって、SNSばっかやっていたので。これ相当変わるなと思って。そもそもマスメディアの衰退とSNSの台頭と、14年前ぐらいにメモを書いたんだけど、そのときに書いたのがメディア転換期が訪れる。マスが廃れて、SNSが台頭して、個人がメディアになる。個人がメディアになるってことはっていう逆算をいっぱい書いてたんですけど、本当にその通りになっていて。それを感じたときに、映像をスパッと辞めて、BtoCビジネスをやりたくてエウレカジョインしたんです。そのときにメディアスイッチが来るなと思って、絶対コミュニティの時代になるって思いました。その後に自分で会社を作ったときはメディアとアプリの会社を作って、IT業界の彼らと付き合っていたり。芸能界やファッション業界、いろいろなとこに顔出してたんですけど、そこからクリエイティブやもの作りに対する気持ちが大きくなって、やっぱり自分で作らなきゃなって感じたんですよね。映像会社やCGの会社と関わっていたんで、なにか僕にしかできないものじゃないと意味がないと思ったんです。CGで作るバーチャルヒューマンっていうIPをやったら面白いんじゃないかっていうので始めてみたんです。

―――クリエイティブとビジネスはとても両立が難しいと思っています。元々はビジネスで成功してる方が周りに多かったので、ビジネス的なマインドとクリエイティブマインドのバランスはどう意識していますか?

守屋:本当にその通り。全然処理しきれてないし、未だにそれに葛藤しています。やっぱりITはいわゆるPDCAを回して、ここにビジネス勝機があるよね、みたいな経営者がいっぱいいるけど、クリエイティブって再現性が難しいし、割とビジネスフォーマットにはなりづらい。サービスじゃないから難しいと思ったんだけど、時代が変わるなって思って。それで今のうちも実はクリエイティブなんだけど、半分はテクノロジー。IT会社と同じぐらいテクノロジーとクリエイティブとビジネスの三つを掛け合わせた状態のものを作っているんです。CGの技術力と、それらの技術に対するクリエイティブと、そこにビジネスモデルをちゃんと乗っけてあげるっていうのが、うちがやってることなんだけど、世の中にあんまりないかもしれないね。CGでああいう人間を作ってるっていうのですごいってなるけど、めちゃくちゃ裏でビジネスモデルが組まれてるのが実際のところ。そういうのはわざわざ友達とかに話さないから、実際はガチガチのアメリカの投資家から調達してるのもあるし、ビジネスモデルをどう実現させるかっていうために動いています。

―――日本の投資家もいろいろあると思いますけど、アメリカの投資先から調達するのには理由があるんですか?

守屋:海外に最初から挑戦したければ一発目から海外で挑戦するべきで、日本を超えてから海外に行くみたいなのはマーケット全く違うし、やり方も全く違うんで。もちろん日本のあの有名なとかでデビューしやすいかもしれないけど、そもそもバーチャルゲームを始めた時点から、それも全く関係ないコンテキストだから。うちは最初から海外だったんですよね。でも、僕はそういうビジネスをやってるけど、いつも一緒にいるのは訓ちゃん。阿部ちゃんもそうだし、ファッション業界やカルチャー界隈が多いんで。本当らそっちが好きだし、この領域をちゃんとビジネスに転換したいっていうか。クリエイターとかもの作りの人は俺の周りにいっぱいいるんだけど、日本ってもの作りできる人、センスのいい作家とか監督とかいっぱいいるんだけど、グローバリズムじゃないっていうこととプロデューサーがいない。要は、お金に対する逃げが多いっていうか。でも結局全員お金で困る。良い作家、良い監督、いろんな人がいるんだけど、僕が日本に一番足りないのはプロデューサーだと思ってる。日本人が得意じゃなく、やらないことを率先してやっていく必要が、なんとなくそこに使命感も感じている。本気で世界を変えたいと未だに思って言ってるから。日本は基本的にはもう終わっていくだけだと思ってるので、勝てるビジネスをグローバルで通用させるためには、IPは世界に打って戦えると思っています。同世代のアプリビジネスをやってた人たちは国内需要で、今後高齢化社会になって、国内需要だけでやるビジネスってシュリンクするだけ。 もちろんそこに向けたターゲットのビジネスは伸びると思う。でも、グローバルって言葉は好きじゃないけど、単純に国内だけじゃないところに価値を持ってって海外で勝負することがやりたい。日本にあるカルチャーやコンテンツは、純粋に素晴らしいものだなって。だけど、それを外に持っていく人、ビジネスに変えていくような人がいないと伸びないし、拡張しないから、そういうことをやらなきゃいけないと思ってバーチャルという武器を使って、持っていくことをしなきゃいけない。ビジネスで勝つことが正義なのかどうかわからないけど、やってみたいと思っています。

―――それに舵切ったのはそもそも会社作ったり、事業にするタイミングだと思うんですけど、根っこの世界を変えるって部分に関して言うと、ある種それってもりやんさんの哲学的な思想ですか?。それが明確になったのっていつぐらいの話なんですか?

守屋:全然最近ですよ。会社作ったころぐらいだと思う。負けず嫌いだし、ずっと何かやってないと生きていけないような人間だから。映像会社を作って何かできるんじゃないかと思ったときに見つけたのがこの事業だったので、見つけたと思って今もう40近くなるけど。でも、怖いのが欲がずっと上がってる。やっぱそのくらいになるとみんな攻めなくなるし、下がっていくよね。未だにその欲が上がっていく。もっとできるもっとやりたい、もっとこうしたいっていうのが欲が上がってきているのは確か。さっき言った質問でいうと、30代中盤くらいからですね。もちろん20代もずっとそう思ってたけど。ずっと思ってるね。多分精神年齢マインドがめちゃくちゃ若いのかもしれないですね(笑)。やりきらないと死ねないっていう感覚。お金の使い方も含めて、人生博打してるなって感じで。金持ちでも何でもないけど、マジでハッピーなんで、そんなこと考えないですね。とにかく計画を立ててやっている感じです。

―――でもビジネスも好きなんですよね。そこの両輪をちゃんと意識しながらやってる人ってそんなに多くないんじゃないでしょうか。

守屋:やっぱり友人、まわりの環境の影響は大きいですね。今は単純にただの仲良い友達なんですけど、そういう人がいるのは刺激を受けますね。さっき言っていたようにビジネスとクリエイティブを扱ってる人がそんなにいないんです。プロデューサーっていう立ち位置、映画とは別で映像会社、いわゆる受託のプロデューサーを見てても、プロデューサーって何なんだろうって考えることが多くて、そう思って理想のプロデューサーをやらなければいけないっていう感覚で。そういう立ち位置があんまいないよね。でも、いなきゃいけない。いないと終わっちゃうなっていう感覚。訓ちゃんとか別格だけど、同世代でそういう人がもっと増えてほしいなとは思うんです。でも、結構増えたんじゃないかな最近は。様々な国に行ってますが、すごいやつはごまんといるんで、まじでごまんどころじゃない。もっともっといないといけないなっていう感覚はある。日本ではそういう人が育つイメージがない。物を作る作家性の方はイメージは強いけど、資本主義である以上は、お金がないと作れないので、やっぱり日本ってお金に対する変なマイナスがある。

―――お金の話をしにくい環境ですよね。

守屋:アメリカンドリームってあれぐらいアメリカはもう一発当ててやろうとしか思ってない奴がいっぱいいて、それがかっこいいってなるじゃん。日本だとそれを叩くイメージがある。それは勿体ないけど、でも最近、そういうのは10代20代の世代でもう変わってる感じはするけどね。自分たちで稼げる時代になってるから、順番はなくていいし。勝手に自分でメディア使ってマネタイズして、そこから頭一つ抜きに出るためには、いろんな能力が必要だと思うけど、いい時代だなって。だから僕自身も変なルールを作らず、勝手にやってくって感じ。勝手にやってりゃ勝手になってるっていう。大人のルールを踏まなくていいっていうのはやりやすいと思います。

―――若い世代からしてみたらどうしてももりやんさんは大人になるじゃないですか。大人がそういうことを発信するっていうのは、ある種こういうふうに考えればいいんだっていうエデュケーションの一環になる気はします。

守屋:本当に僕も狭間の世代で、上と下に繋がるのが多いので、50、60歳の先輩もいるし、10代、20代の後輩とか付き合ってる奴もいるので、めちゃくちゃ両方から刺激もらっています。下の世代と一緒に何かをやるとか、下の世代が何を考えてるかを汲み取り、どういう新しい価値観を持っているかは大事で、若い者ほど全てってよく会社でも言うけど、本当に自分はそう思っています。クラブによく足を運ぶのはやっぱそういうところを見たいからだったり。若い人たちのムードを感じ取りたいし、生意気であればあるほど好き。気遣う必要ないというか、上に対して僕自身超生意気だからね(笑)。今の若者にも期待しています。

Photo : Ryutaro Izaki

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