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CIRCLE OF DAYZ vol.10 Teru Noji

DAYZ」と結びつきの強い人物や「DAYZ」が心惹かれる人物についてじっくり深掘りしていく「CIRCLE OF DAYZ」。第10回は18年ぶりの帰国であり、日本で初めて展覧会を開催するアーティストのテル・ノジにインタビュー。謎に包まれた、バックグランドやモノづくりについて訊いた。

―――18年ぶりの帰国ですが、そもそもなぜ海外に行っていたんですか。

僕は日本生まれなんですが、2歳で香港に住んで、それからまた東京に半年帰ってきて、それからアメリカの東海岸の方に6、7年住んで、小学校高学年の時にまた日本に帰ってきました。学生を10年ほどやって、22歳からは貧乏旅行に目覚めてバックパッカーをやっていたんですよね。それで現在51歳なんですが、結局気が付いてみたら人生の3/4が海外にいたんですよね。なんでそんなに帰ってこないのってよく聞かれるんですけど、僕は外国人であることが好きってことに尽きるんですよね。外国人であることで特別視されますし、外国人でいられることが心地良いんだと思います。日本人であることがアドバンテージなのかなって思います。あとは自分自身が周りが外国人であるって言うワイルドな環境がすごい好きなんですよね。なんか映画の主人公みたいな感じで。

―――自分もバックパッカーをやっていたことがあるんですけど、通常の生活を送っている時とは違うマインドだと思うんですよね。バックパッカー精神みたいなものを感じるんですが、何か理由はありますか。

センスの問題、あるいは鈍感なのか。ただ今聞かれてみて思い当たるのは、子供の頃の自我が構築される一番大事な時期にアメリカで生活していて、その時に育まれたアイデンティティがそうさせるのかなとは少し思いました。自分は自分でいていいってことはその時に学んだ気がします。だから、こうでなくてはならないみたいな既成概念はないし、中指を立てて反発するとかそうゆうタイプでもないので。よく人はシステムの中にいるとかいないとかそうゆう話をしますけど、自分の場合はどちらかというとそのシステムの中にいたいってタイプだとは思います。

―――海外で生活していた後にまたこうして日本に帰ってきた理由ってあるんですか。

逆になぜその間に日本に戻って来なかったのかという話をすると、1つは単純に経済的な理由からです。あとは帰ってたまるかっていう意固地になっていた自分もどこかにいて。18年前に日本を出た時にすぐに帰って来れるからいいやとは思っていなくて、もっと本当に海外に出てしまえっていう強い気持ちがありました。だからこそ自分がやりたい己の芸で稼げないと帰らないという思いはすごく強かったと思います。月日が長くなるにつれて、帰ってこない自分に対しての価値が高くなっているのではないかとどこかで思い始めたんですね。3年ぶり、4年ぶりってよく聞くじゃないですか。15年、帰ってないんですって話をすると本当に驚かれるんです。そこにも価値があるんだなって思って。ただ面白いのがこんだけ帰っていないと15年だろうが20年だろうが一緒とも思うようになっちゃって。固執しないようになったんですよね。そんな時に去年くらいですかね、自分が南フランスにいたときに、〈BEDWIN & THE HEARTBREAKERS〉の渡辺真史くんが声をかけてくれて。その時は日本に帰国する覚悟がまだできていなくて、すぐに答えを出すことが出来なかったのですが、やってみたい、東京でやるべきだって気持ちに最終的になりました。

―――もの作りを始めたきっかけは何かあったんですか。

子供の頃からものを作り出すのが好きだった子みたいで、10代の時も何か欲しいものがあった時は判断基準として自分で作れるものかどうかっていうのが念頭にありました。小さい頃から周りの子がやっていることとは正反対のことをしたいという気持ちがあって、自己主張がすごく強いクソガキでしたね。あとは、中学校の美術の時間に描いた作品を暴走族のリーダー格の先輩が引っ剥がして、これすっげえカッコいいじゃん。俺にくれよって言われたんです。その時に自分が作るものへ価値みたいなものをすごく感じて、なんとなく直感で自分はそうゆうふうな方向に行くんじゃないかっていうのは思いましたね。最愛の母を13歳の時に亡くして、敗れかぶれになっていた時の美術の授業だったので、ふざけるな自分の好き勝手してやるって思っていた中で、先輩がタンクに貼ってくれているっていうのは何せすごく嬉しかったです。今振り返るとおそらく目覚めだったんじゃないかって思います。その後はずっとバンドをやった。音楽であろうがアートであろうが何か表現するっていうのはずっと続けていたと思いますし、全て同列で見ていたので、これじゃなきゃだめだっていう縛りは自分の中でなかったです。自分が自分であるために表現して続けていたいって気持ちが大事だとその時からずっと思っています。

―――その後の生活はどうだったんですか。

大学は高校からの附属だったので、日大芸術学部の合格が決まっていたんです。渋谷の道を歩いていた時のことで、長髪を束ねた背の高い派手なにやけた男性が前から歩いてきて、僕を上から下まで見るわけですよ。嫌なやつって思って通り過ぎようとしたら、帽子と靴を指して「お前の履いてる靴と帽子、すごい合ってるぜ的な感じで親指を立てて、ウインクを決めるわけです。その後もコートをサッと靡かせて去っていって、こっちはなんだあいつはと思って通り過ぎたんです。ちょうどその時にテレビでファッション通信という番組がやっていて、山本寛斎が出ていたら、この人だってなりました。すごくショックを受けたんです。渋谷の道でばったりあったにやけた長身は山本寛斎だったんです。それで父に申し訳ないですけど、大学に行くことはやめようと思います、大学ではなくバンタンデザイン研究所というところに行きたいですって土下座をして、山本寛斎が講師をしているバンタンデザイン研究所に行かせてもらうんですね。僕としては今となっては大学にいっても良かったのかなとは思うものの、もっとカルチャーと近くて、ファンキーなところへ行かないとだめだって思いがすごく強かったですね。

―――バンタンでの生活はどんな風に進んでいったんですか。

ところがいざ始まってみるとダラダラしてしまうんですね。いわゆる日本の学生みたいな生活をダラダラと送ってしまって。実際に入ってみると自分が期待していたような大義名分はなくて、結局他の人のダラダラしている雰囲気にやられてしまったんですよね。ただ、今考えてみるとその中で学んだこともあったし、ためにはなっていたんですけど、そんなにカルチャーでどっぷりって感じでもなく、フランクにパーティー楽しんだりとか、みんなでナイトクラブ行ったりそんな生活でした。むしろ卒業して数年ボーっとして、なぜか突然インドとかに目覚めてバックパッカーをスタートさせた時の方がインパクトは大きかったかなと思います。

―――バックパッカーを始めた理由って何かあったんですか。

その時はオルタナティブロックだらけで、どこ聴いても流れている的な。僕自身も当時別のバンドをし始めていて、バンドに何かが足りないと思っていながらも、それが何か分からなくて、だったら今までの先輩の方々がやってきた手法、ジョージハリソンがインド哲学にハマったりをやってみようと思ったんです。そうゆう意味では自然な流れだったと思います。決してアメリカやロンドンやロサンゼルスに向かうことではなかったんです。子供の時に自分はたくさん見ていたので。もっとワイルドなところ、ニューデリーやゴアでしょって思いがあって。お金がなくなったら東京に戻ったり、それからもインドと日本を行ったり来たり。他にも隣国のスリランカやネパール、それにも飽きたら南米に行ってみたりしてたら、結局インドが心底嫌になってしまって、インドネシアのバリ島に住み始めるんです。

―――その間はどうやって暮らしていたんですか。

結局、食べていく術が必要なので、Tシャツに絵を描いて売ってみようとか、そうゆう原始的なことから始めました。もうちょっと優雅にリゾート的なことができないかって思うようになり、当時旬だったバリ島にその後に奥さんになる人なんですけど、当時その彼女と行くんですね。それで住んでみたらすごく居心地が良くて、そのまま三年くらい住み着いてしまって。ただその彼女が妊娠して長男が産まれた時にそのヒッピーライフに疲れてしまって。当時は来たるミレニアムでぐちゃぐちゃ。俺たちみたいな髪を長く伸ばしている連中はもう世界は無くなるんだって言っていて、それはそれは心底嫌で。こっちはガキのミルク代を稼ぐのに大変なのにみたいな。嫌すぎて腰まであったドレッドを全部切って、そのタイミングで東京に戻るんです。そこから東京に五年くらい住んだのかな。僕は代官山のデザインスタジオで、フォトショップや印刷技術をちゃんと習うことができたんです。そのおかげで自分で独立することが出来て、自分のオフィスを三宿に構えました。

―――その後にまた日本を旅立つタイミングが来るってことですもんね。

その間に娘も出来て、今度は妻が日本が無理になってしまって。妻はバリ島でも裸同然で過ごしているような人だったので、日本のかしこまった感じや整備されている感じが合わなかったんでしょうね。それで彼女は南フランス人だったんですけど、あなたがまだ私のことを愛しているんだったら私たちを追ってフランスに来てくださいって言われて。その時の僕は自分の会社が鰻登りでうまく行き始めていて。子供と離れるのもすごく辛かったので、会社を預けて約1年後に自分もフランスに飛ぶんですね。それから18年経ってやっと日本に帰ってきたと言うような感じです。

―――あまりにも長いフランスでの生活だと思うんですけど、フランスではどういった活動をされていたんですか。

家族を取り戻すためにフランスに旅立ったはずなのに、もう夫婦間にパッションがなくて、1年後に別れてしまうんですね。離婚をしようと言われて僕はすごいショックで、それで鬱になってしまうんです。もう相当深い鬱になってしまって、出ていってとも言われるんですけど、フランス語も喋れなかったし。それで数ヶ月ホームレスをやってしまって。金ない、仕事ない、言葉も喋れない、女に家叩き出されたから公園で寝てたりしていて、あっちで寝たりこっちで寝たり。ただ元バックパッカーだったのが救いでした。そこからなんとかベトナム料理屋さんで働けて、そこの奴隷を寝かせるような蛸部屋みたいなのがあって、そこに住まわせてもらって。もう本当に人生のリセットボタンを押してしまったので、そこから再スタートでした。

―――日本に帰ったら仕事はあったわけじゃないですか。どうして帰らなかったんですか。

確かにそうだったんですけど、それどころではなくて本当にど鬱で、子供と離れることがどうしても出来なかったし、子供は泣きついてきたりするわけじゃないですか。それもあって当時は子供への執着がすごくあったので。それで最終的にはうつ病を十五年ほど引きずってしまうんですよ。それもあって帰れなかったって言うのはあるんですよね。昔の仲間にこんなダサい俺を見せるわけにはいかないっていう変なプライドもあって。あらゆるメソッドを試すんですけど、どうも何も効果がなくて。その中で唯一効いたのがボクシングだったんですね。コロナの一年前くらいの時にボクシングを始めたら、うつ症状が嘘のようになくなって。結局、運動だったんですよね。それでそこからどんどんボクシングにのめり込むようになりました。でもその鬱の状態の時も自分が誰だかわかんなくなってしまうから絵を描いたり、物を作ったりは絶対にやめないようにしていました。自分のためのことをしよう、それってつまりアートだと目覚めて。その時に自分はアートの世界とすごい近くにいたはずなのに、一度も挑戦したことがないじゃないかって気づくんです。そこからアート、芸術活動をするってこと繋がっていきます。その時のインスピレーションは、全ての作品に反映されています。その間でも生きていかないといけないから、レストランでも働いていました。油まみれの中華鍋を泣きながら洗っているんですけど、こんな痛い思いをしている時に東京の連中が煌びやかなSNSをあげてて、鬱だからそれが毒でしかなくて、本当に当時は辛かったですね。自分が作っている美術品がフランスでも少しづつ認められるようになって、真面目に取り組み始めました。合同個展に呼ばれるチャンスがあったり、アートでも場数をそこで踏んでいきました。頭がおかしいなりにもなぜか認めてくださる方がいて、やっていけたんですよね。そんなこんなをやっているうちに、東京でショーやってみたらという話になりました。

―――今回のショーはどういったテーマなんですか。

言われるまでに気づかなかったんですけど、バービー人形にタトゥーを入れたり、セラミックのアンティークの壊れた人形を直してタトゥーを入れたり。あとは使い古しの日用品にエッチングを施す作品だったり。タトゥーをテーマでなんかやってみたらって渡辺くんに言われて、確かにそうだなって気づいて。名前を考えた時、ローリングストーンズのケーキのジャケのアルバムの『Let It Bleed』、要はタトゥーを入れると血が出たりするじゃないですか。けど僕が入れるモチーフ、プラスチックの人形であったり、アルミの鍋だったりには血が出るのかなとかを想像した時に『Let It Bleed』ってちょうどいいなって。血みどろになれ的な、血を流しっぱにさせよみたいな意味合いですかね。ローリングストーンズも大好きだし、ロックだし。なおかつ僕も18年ぶりと言うのもあるから今までの集大成って意味で、回顧展にしようかって意味でレトロスペクテッド=回顧展ってサブタイトルをつけてやってみるのはどうでしょうって言ったら、OKが出てそのタイトルに決まりました。

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